工芸品
自分と違うひとたちと関わるのは,楽しいような,疲れるような,そのせめぎあいのなかで楽しいほうに針が傾いたひとが,あみなのでしょうか。自分はあみに対して,少なくともひとつの好きな側面をもっている気がします。そして,ツイッターが示してくれたように,わたしたちは世界のさまざまなところに好きなものを見出せる気がしています。
ぼくが言語が好きなのは,きっとこういった考えに関係しています。ぼくは世界のどこかに生きているひとが使っている言葉をそのまま聞いてわかるようになりたいのです。言語はある側面によれば,自らを表現し,外界に伝える道具です。一方,それは自らを育てた周囲の環境から継承するものであって,その点で外界が自分を構成するものでもあるのでしょうか。
さて,ぼくの興味の対象は第一には言語に向かっていまして,そのためにそれ以外のものへの興味は後手にまわっており,薄くて狭いものではあるんですが,文化芸術や生活の道具といった事柄にも,同じことがいえると思うのです。
工芸品は,作者が自分のよいと思うものを形にしてあらわしたものなのでしょう。それに対して,作者と知り合いではなくて,時代も場所も違う自分が,素敵だと思うことがあれば,そこに普遍的な美意識の交流が発生するのです。
一方,工芸は美術作品とは異なります。美術作品が,作者の内面を外界へとrepresentateする手段として単独の役割を担っているのに対し,工芸品に込められた美意識は,ひとりひとりのひとに大して普遍性を持ち,世界に対して特殊性をもつ,民族文化の集団的な枠組みの中で,日常の道具の一部として隠されて存在しています。工芸品の装飾は,それを常用するひとにあっては,見慣れてしまって見えなくなることもあるでしょうし,道具としては,それもまた本望かもしれません。しかし,そんな日常の道具の中に美意識を見出すことができるのは,毎日の情報伝達手段である言語の中から,ふと詩的な表現が現れ出るのに似ていると思います。