日本橋
中央通りは上野と新橋とを結ぶ。その直中 にあるが日本橋なり。葵の御紋まかりし世に五街道の起点として賑はひしは言ふも更なり。或ひは大八十島の津々浦々より到れる五街道の一点に集ふ先こそ此の日本橋なれ。聳ゆる甍は名立たる老舗の本社なり、文明開化の気風を遺す栗色の洋館は髙島屋なり。其の向かひに構ふるは丸善なり。丸善は本 、洋書を扱ひし書肆と聞こゆ、明治維新の新風を支へし四海の知識の集積地なり、稀代の賢人も出入りしつべし。中央通りは新橋に於いて其の名を第一京浜と改め神奈川に至る、修好条約を結びて初めて開放せられし世界への窓口なり。稀覯の宝物 渡り来て横浜より初めて本朝の土を踏み街道を直進して到れるは此の日本橋なり。
日本橋は町名にして本、橋の名なり。其の姿は広重の五十三次一枚目にして遍く知らるる所となる。但し、火事は江戸の華といふ、日本橋も六度 の架け替へを経。今日の橋は明治四十四年に架けられしものにして両端は混凝土、中央には煉瓦を用ふ。和洋折衷の技巧を凝らして設計せられ千歳の時に耐ふと云ふ。今者は百年にして既に波瀾万丈の世を経。昔日馬車鉄道の駈けし路面は自動車の往く道となる。遠き異国より飛行機の飛来して焼夷弾を落とせしの痕も残れり。高度成長の中にありては首都高速の跨ぐ所となる。蓋し景色の最も変はれる出来事なり。それも既に五十年も昔のことにして、景観を損なへるとの批判もまたあれど、我国の歴史を写すかの如くにして、蓋し必ずしも悪しからざらん。東京は空言の物語の中の街には非ず、現前せる生活空間にして商業の舞台なり、さればあらまほしき有様を常に留むるを得ず、如斯妥協もまた百載の巷人の息吹の蹟なり。畢ひに大正天皇賦せさせたまひし詩にて結ばん、曰く、絡繹舟車倍旧饒、高楼傑閣聳雲霄。神州道路従茲起、不負称為日本橋。