結節点
楽しかった時間はだんだんと曖昧なものになって,郷土史に差し挟まれて顧みられることのない一行のように,記録の中の存在となってしまう。その時間を楽しく過ごしたという実感の記憶だけが,楽しかった時間の実在を証明する痕跡として,いまの自分の中に見つけることができる。
一方,思いがけない断片が,出土品のように記憶に残っていることがある。太古の生活の中で,深く顧みられることもなく供されていた日用品が,その時代を示す特別な証拠として博物館に陳列され,戸惑いの表情を見せているように,そういった記憶は,しばしばイベントに対して不釣り合いだ。紅葉狩りに行ったはずなのに,山中のトイレのタイルの水色がいちばんの印象に残っている。
しかし,特別なことをしていても,普通のことをやめることはできないのだ。休み時間に廊下で喋っていても,一緒に五百キロを移動して寺社を巡っていても,あみとの関係があみであることは変わらないのだ。
そして,そんなあみとの関係を育んでくれたのは,特別な日ではなく,毎日の学校での時間だった。そう考えれば,特別なことよりも,取るに足らないことのほうが鮮明に思い出されるのは,しあわせなことかもしれない。
いま,りせから外に放り出されてしまった。あみと会うことは,特別なことになってしまった。ぼくたちは,関係を維持することができるのだろうか。
先日,ひとりのあみと会った。あみは,去年より少し饒舌になって,しかしながら,まるでその日が,最後に会った日の翌日であったかのような調子で,他愛もないことを話してくれた。でも,その日は,ほんとうは最後に会った日の翌日ではないのだ。ぼくとあみの間には時が流れ,互いが互いの知らない顔で日々を過ごしている。ぼくとあみは,生まれたときから知り合いなのではなかった。りせに入って初めて知り合い,りせを出て,また違う門をくぐる人間となった。交わった二本の直線は,その後はひたすら離れていくばかりだ。だから,あみがその日に起きた災厄を面白おかしく話してくれたのは,すごいことなのだ。
あみとの関係を保つのは,才能のいることなのだろうか。ぼくはその才能を授かっているのだろうか。ぼくは,今のあみからも,記憶の中で交点に立っている昔のあみからも,少しずつ離れていってしまっている。記憶の中で交点に立っている昔のぼくからも,離れて行ってしまっている。交点で並び歩くぼくとあみの姿は,何百年も前に故郷を治めた名主のように,他人事だ。