紛争、狂気、夢
季節の始まりと終わりをはっきりと分けることはできないでしょうが,ぼくにとっての夏は,梅雨をその始まりとしたいです。五月に見え始めた日照りの暑さの萌芽は,六月のどんよりとした厚い雲に閉じ込められて,そのむしむしとした息苦しさを熟成させます。細かな水分の集まりである雲は,目に見えない太陽から来る光を一面に乱反射させます。ゆえに六月に光と影の区別はなく,水蒸気のもつ強力な温室効果を前に,昼と夜の別さえ曖昧になるのです。こうして,局所的に現れた夏は,大空に幅を利かせる煩わしい覆いのもとで,路地の一本一本の小さな植木鉢に伸びるつる性植物や,金魚鉢の中に溜るおりの一つ一つにまで染み渡って行きます。春先に芽吹いた今年生まれの葉は,もう透き通るような繊細さ,薄っぺらさを失って,光をはねのける深い緑色を獲得しています。雨粒を大いに湛え,その重みに弾性が耐えかねたとき,葉は身震いをするように表面の露を振り払い,大きな躍動を見せます。そしてまた雨粒が表面に蓄えられていきます。この静と動とを繰り返す果てしなさを眺めるにつれ,自我は忘れ去られ,終わりのない時の刻みと,いつまでもその終焉に辿り着けない大地とに一体化するような陶酔感がこれに交替します。こうした錯覚に支配されるのも,また,光と闇,過去と未来,内と外との輪郭を曖昧にする,あの無自覚にもうすのろで厚ぼったい,黒とも白とも言いがたい巨大な庇のせいなのでしょう。しかしながら,そうした雲の圧政のなかで止まったように見える時間の中で,来るべき支配の終焉と,その後の解放への期待は,身体を外から圧迫する蒸気への反作用として,身体の内部で膨れ上がって行きます。
梅雨の終焉は,案外突然に訪れるものです。その後はひたすら,全てが白日の下に晒される日々が到来します。影は,圧倒的な太陽高度を前にその存在を許されず,どことも知らぬところへと逃げていきます。空気中を覆いつくす水分もまた,陰気な六月に蓄積させた憂鬱が強烈な紫外線のもとに漂白されて,まるで人が変わったように,既に溌溂としたリズムに鼓掌してこれを増幅させています。中高は定期試験に突入し,追い立てられるような試験日程と,点数への一喜一憂と,午前中に帰宅する非日常感とに狂乱して,夏休みの序奏を飾ります。頭頂に照り付ける強烈な光線は,夏の激烈さとの最初の邂逅として,モラトリアムのような長い休暇を衝撃的に予告するのです。
ビッグ・バンのような夏は,全てを夢幻の舞踏会の中に巻き込んで,駆けるように過ぎていきます。部活や,旅行や,夏祭りといった打ち上げ花火たちは,鮮やかに夏を飾りながら,その余韻を味わわせるより先に消え去って,掴むこともできないままに,ぼくたちはまた次の花火を見るのです。街を行く人々は,あっけらかんとした空の青さのもとで大胆になり,水色や黄色,白といったポップな衣裳を身にまとい,小さな子どものようにはしゃぎまわりながら,ジェットコースターに乗るようにぐんぐんと夏を消費して突き進んでいきます。その目まぐるしさは,あんず飴のどろっとした甘さをも中和してしまい,団扇を煽ぐ腕の疲労さえ,熱量へと変換してしまうほどです。レモン水もクリームソーダもごくごくと喉を通過して,癒えない渇望感はつぎつぎと水分を飲み込んでは,汗にして排出していきます。流しそうめんにかき氷,屋台のソースの味のように,食事の時間さえもアトラクションから離れることはできません。日没は遅く,時計の針がようやく上昇を始める七時をまわるころ,幻想的な一日に敬礼をするように,鮮やかなマゼンタの水彩を一面に溢してその終わりを告げるのです。短い夜は,上昇中のジェットコースターのように,一時の安らぎを齎しながらも,次なる加速に向けての期待感を常に高めていきます。明日も明後日もその先もずっと続く休みと寝坊のために,夜は特別なアッディショナル・タイムとなって,神秘的な挿入歌のように夏を盛り上げていきます。
狂騒の季節の進行があまりに速く,そして実際夏休みは二か月も続くために,その終わりはぐったりとした満足感とともに迎えられます。立秋を過ぎた夕方の涼風は夢の終わりを告げ,何度かの熱風のアンコールの後に,夏は足早にどこかへと去っていくのです。後から夏を振り返ろうとしても,すべての思い出はアルバムに整然と収められた写真となって,美しい輝きを湛えつつも,かの連続的な躍動感は,賞味期限が切れてしまって,二度と味わうことはできません。九月の始業式とともに,冷や水に振り払われた夢のように,かの狂った祭りの季節は潔く幕引きをするのです。