本の魂
大学の図書館より借りてきた二冊の本のうち、一冊を読み了えてしまって、もう一冊に手を伸ばす。他の本と同じやうに、恐らくは保存の為に、有るべきカバーを剥ぎ取られた其の本は、その抽象的なタイトルと、アンカット本の生物的な膨らみと、厚さとを以て、猶ほも重厚の雰囲気を醸し出してゐた。然し乍ら、其の重厚さは、大学図書館の陳列棚の中に有つては、全く無個性であつた。と云ふのも、四海のあらゆる本を集めたのではあるまいかと錯覚させるような巨大な集合体の中にあつて、古今東西の本は独特の色香を漂はせてゐるのが常であり、大地の果てにある如何なる国よりも遠い異国のやうなる百年前の我国の、未だ洗練を経ぬゴシック様式の如きごたごたした複雑さの中に、成長を急がんとする若々しく青臭き熱情を湛えた稀覯の本は、往時の空気を缶詰にしたかの如く全く現代から隔絶したコレクションとして堂々たる威風を見せてをり、其中で一体如何なる本が唯一の気配を以て人目を惹き付ける事が出来ようか。従つて其の本の個性は、全く埋没してゐた。実に私がこの本の背に指を掛け本棚が引き抜いたのも、その表題の抽象性を不審に思つたからに外ならぬのであつて、先に述べたやうな雰囲気は、これを侘住に持ち出して見て初めて発覚した事なのである。そして、雑事の為に此の本を閉ぢようと、栞の紐を探した時に。その紐は全く取り付けられた儘の姿で折り畳まれ、或る頁と頁の間にひつそりと挟まれてゐた。私の前に此の本を読んだ人は、一人として居なかつたのである!独創的なフレームを情報として内包する本を物質的に構成する活字は、唯だ今私が其れを享受する為だけに存在したのだ。此の本が刷られたのは十年前の事で、其頃の私は小学校に上がつたばかりであつて、列島は彼の巨大地震の齎す惨たらしき災厄を未だ知らなかつた。此の十年で我国の人口の一割が去り、一割が新たに迎へられて、社会の代謝は全く異なる様相を見せてゐる。嗚呼この十年といふ歳月の長き事よ。果たして此の本は次の十年の間、一人の読者を迎へる事も無く又本棚の中で沈黙の内に佇むのであらうか。それとも再び読み手に開かれる事は無く、複製に複製を重ねる物質文明の中にあつて、私のみの為に傅く唯一つの存在として永遠の時の中に葬らるるのであらうか、私と此の本との邂逅は、全く一縷の不審といふ偶然にしか由来せざると云ふのに。
書籍の本質と云ふものは物質の中に有るのだらうか、それとも情報の中に有るのだらうか、此の問は、外的に嵌め込まれたbibliophileの枠の中に有つて——本を読むと云ふ行ひは私にとつて全く自然であつて、其れが何らかの言葉の拠つて描写されるに値するものだとは私自身の内部に於いては全く信ぜられない事なのであり、斯くの如き鈍き動機に拠つて本を読んでゐる私が之を自称する事は、甚だ厚顔無恥なる僭称に他なるまいと強く自戒をする所であるが、一方で他者の性質と自己とを照らし合はせた時に、初めて浮かび上がる私の特徴は、此の語を以て表すより外に其の術を寡聞にして知らぬのである——私の書籍に対する敬意を如何に差し向けるべきかと云ふ目前の課題として常に私を悩ませてきた所である。然し乍ら、情報と云ふ抽象的な存在は、活字と云ふ形象に依存して初めて表し得ると云ふ事実は、何らの魂も肉体の器無くしては現世に干渉し得ないといふ事に外ならず、斯くして死は肉体と精神の何れを以て定義せらるるべきかといふ現代医学の倫理的課題と全くパラレルなのであり、脳死患者の臓器移植が認められてゐるのと丁度同じやうに、情報無き活字は命を有してゐないとすれば、此の課題は情報を其の本義とする事に拠つて解決せらるべきなのだらう。一方で、人の本質が魂に有るからといつて、其の肉体が愛の対象にならぬ訣では無い事は、全く残念な事に私の未だ知る所では無いにしろ、億兆の人類の営為の結果として証明されてゐよう。魂は不可触の神聖さの許に、此の世界の写像とも云ふべき別の空間軸の上に存在するのであつて、之を愛でんとすれば、現世にある肉体を愛する事に拠つて、間接的に終域の元に影響を与ふるより外に術は無いのである。即ち、魂と魂との交流は、肉体と肉体との交流と云ふ迂遠な方法に拠つて達成せられてをり、その制約を受くるのである。然うであるならば、本を愛する時に、其の物質を愛し、之を飾り、慈しむ事に拠つて、其の魂への敬意を表明する事は、不器用な人間の所作としては、些かも不自然ではあるまい。猶ほ大胆に言ふなれば、魂を見んと欲すれども、見えるのは肉体や声や言葉と云つた器に過ぎぬのと寸分も違はず、情報を愛でてゐる積りでも、実際には活字や装丁と云つた物質を見てゐるに過ぎない。物質は精神に対し、斯くも大きなる強制力を持っているのである。然れば、物質を以て此の本に神秘を感じてゐた冒頭の私の態度は、糾弾せらるべきものではあるまい。
大学図書館の大きさは、常に私を畏怖させるものであるが、其れは単に、其処に数へ敢へぬ紙とインキとが有るからではなく、その一つ一つが、別世界への入口と為つてゐるからであらう。空気の缶詰と云ふのは強ち過誤にはあらで、其れは別世界の空気を此の世界に噴出せしむる為に意図的に開けられた穴である。そして其の穴は計画的に開けられてゐるのであつて、管楽器の如く芸術を創出する。其の穴は、楽譜に従つて吹いた歌曲が、吹き手毎に、或いはコンサート毎に別の作品として鑑賞されるのと同様に、読み手と共鳴して変幻自在に其の音色を変ふるのである。それは、人に絶対的な一つの人格が知覚し得ぬのと似てゐる。独立した自我と云ふものは自身からも見る事のできぬものであって、実際には自らの思考や嗜好と云ふものは周囲の他者との交流の中で、意図するせざるとに拘らず、異なった形を見せよう。其れは魂の不可触性、物理媒体の制約とに由来するものであるが、だからこそ魂は動的な波に晒されて、感動を齎されるのでもあるのだ。その点で、実は、此の本に爾後他の読み手が現れるか現れぬかは重要ではなく、只だ今私が此の本を読んでゐると云ふ唯一性にこそ、読書を通じての感動が立ち現れるのだ。そして此の本が本棚の中で没個性であつたのは、吹き手のない楽器と同様、其れ自体として価値を内在させてゐたとしても、其れを評価する術を見出し得ないからなのである。(或いはイスラームの、草紋があしらはれた弦楽器を見て、吹き手を必要としない価値を見出す人があるかもしれないが、其れは其の人が其の楽器を観測してゐると云ふ点で、聴覚的に演奏が果たす役割が、既に視覚的に果たされてゐるのである。)
詰る所、物理的書籍は他次元の情報を我々の次元へと転送するメディアであるが、其れは我々が読むと云ふ行為を通じて初めて評価されるのである。其の評価は読み手と読む時間を外生変数として有つ点で常に唯一性を持ってゐる。情報は其れ自体として価値を内在させてゐるが、其の価値は其の本の著者自身でさへ、完全に把握する事は出来ない。何故なら、其れを書くと云ふ行為も亦た、情報の演奏の形態の一つに過ぎないからである。そして、我々が其の情報への感動を敬する時、其の行為は、外見上は物質的書籍を愛撫する形を取り、物質的書籍への耽美に拠つてこそ、情報を評価する事ができるのである。