梅雨のみたま
課題あまたあるを、心適はずして、知らずして足は逍遥す。xx川を渡りて先に見ゆるがxx庭園なり。
去年はオンライン繁くありては日ごと十分ばかりの散歩をして、この庭園 のベンチにパソコンを広げて授業聞きつつ、心あくがれてはひろき空のした戦げるもみぢ葉にふりゆく年の瀬をあはれみしも常なりけるを、対面授業に返りてはさすがにおのづから足も遠くなりゆき、梅雨に入らんずるいぶせき心地に、鹿威しの拍子に合はせて絶えず流れゆく川の声、あたりに充ち満ちてあやしきもの入り来る余地なきぞ、却ってしづかにして心安くおぼゆるもまた絶えて知らざりければ、わたりをおどろき眺むるばかりなりけり。果たして一年のうちに、同じき界隈のけしきかくも変はりぬめり。いまは昼下がりにしてなほくらき林のかげに、あやしげなる羊歯とどくだみの招きにあひて坂道をのぼり進むきはには、なのめの木膚もゆかしく目新しき心地す。此はもと華族の別邸ななるを、宿主往 にて幾年月、初夏の不穏湛ふるしづけさも、あけひろげなる秋口に鴨など渡りくるも、みなありつるやうなれば、人の世はいかにかむなしき、華族の家人かしづきととのへて、かつはめづらしがりけむを忘れぬるやうなれば、またいかにかつらきと恨みては思し嘆かるべし。
時の過ぐるはかつは飛ぶ矢の、かつは流るる滝川のごと、今は帰るべき時間になりて、庭園を出でて町を歩けるに、にはかに思ひ出づるは梨木香歩の文ぞ。一度かく覚ゆれば、わたりのおほほしきさま、盛んに蒸散をせる濃き木陰のゆゑのみかは、霧りわたるにはあらねども、あやしくおぼろげなる視界にはみな、あらぬ世の霊 、あるひは物の怪のたぐゐ蔓延りわたるめり。まさにかの人の書きつくりしごと、かの人の語らひしは、英国や未だ拓けぬ北海道のことと思ひしかど、わが東京にもあるめりとは知らざりき。かくもよしなしごとなど心に浮かべもの思ひしわたれば、いぶせき梅雨もゆかしくおぼつかなくも覚ゆるかな。