真實のレイヤー性に就て
現實よりもインターネットの方が餘程本當らしい.
現實では,存在は關係に拘束される.自分は常に特定のひとに對置して存在してゐて,そのメンバーシップは嚴格である.例えばある友人と遊びながら,同時に別の友人とも遊ぶことは,その友人同士が少なくとも相互の存在を認知してゐなければ,成り立たない.この性質ゆゑに,自己は關係性の中に固定され,自然の變容に楔が打たれる.このとき,自己は他者との關係のみを以てさへ表し得るやうでもある.そして自己は他者の補集合となって無意味化され,意味の上で消滅する.ここに,現實における自己は外部性を帶びる.
インターネットでは,關係の本質は異なる.そこに枠組は存在しない.否,枠組の存在するオンラインの關係といふものもあらう.LINEやDiscordのやうに.而うしてそれは現實のオンライン化であって,私のいま議論したいインターネットとは違ふのである.私は重度にTwitterに入り浸ってゐるので,それをインターネットの標準と捉へがちなのやもしれぬが.とかくそれを何と呼ぶかは問はない.インターネットでは,自己開示が先行し,枠組の形成はずっと可塑的かつ重層的に自然と行はれる.ここで形成される枠組は自己開示の內容に依存し,從って複數人の自己の和集合とも捉へ得る.
關係と開示主體とで,より自己の本質たるのは,私の直感に從ふ限りでは後者である.關係はラベルであって,付け替へることさへ容易だ.しかし自己は,少なからず非直感的なことに,意識の統御下にない.欺瞞でなくして異なる自己を表出することはできない.自己はシステムであって,異なる人は異なるシステム系として,相互に影響を及ぼしつつ,それぞれ獨立に機能してゐる.その獨立は孤獨であって,他者の不在である.インターネットの自己開示は明確な對象を想定してをらず,そのために自由に自己に忠實であることができるのだが,それは實際には異なるシステム系の獨立性である.
現實は實質的に單一ではない.異なる期間に異なる場所で存在した現實は,あまりに複雜な公理系の中にあって,殆ど互いに獨立である.また,現實認知に影響を及ぼすべき存在としての夢,妄想,嫉妬などがあり,これらはみな同等である.知覺された外部は內部の一レイヤーに過ぎない.インターネットも一レイヤーである.しかしながら現實は,それが外部であるやうに擬態してゐる.實際には知覺された時點ですでに外部ではないのにも拘らず.インターネットはプロフィールページや誰に當てるでもない揭示板の書き込みによって自己の內面性を自覺する.
名無し揭示板は,自己同一性といふ假構からさへも自己を解放し,更に自由な自己開示を可能にする.存在を動作の歸結の集合として捉へるのならば,それは自己の存在自體の自由化である.
このやうに,實のところ,存在するのは內部だけである.內部はさまざまな現實を形成して表出してをり,インターネットもその一部である.現實は,それが外部であるかのやうに擬態するか,さうでなければ自己の存在しない關係の形式で客觀的にあらはされるのだ.