les impressions et les expressions

小さな山の話

une petite montagne
originel, 07 juillet 2022

大学のそばの公園にxx山という築山がある。去年のオンライン授業が主流だったころは、キャンパスの中ではどうしても気持ちがくさくさして身が入らなかったから、景色の良いところを索めて色々なところへ出掛けてはパソコンを広げて授業を聞いていたのだが、そのうちの一つがxx山であった。

xx山は標高がxx.xメートルあって、xxxのxxxだという。といってもこれは今調べた話で、ぼくがその山へ足繁く通っていたという事実に対しては些かも重要なことではないのだが。

xx山へ行くには、落ち葉でいっぱいになった道を、時にさくさくと音を立てながら登り、錆びた鉄のオブジェを横目に只管上がって行けばよい。ぼくがそこへよく行っていたのは秋から冬にかけてのことだったが、時々、そういう種なのだろうか、小さなモスグリーンの双葉が、落ち葉の隙間から顔を覗かせていることがあって、そういうのを見つけるのが、道中の小さな愉しみだった。近所に住んでいるのだろうか、親子連れもよく見かけた。四歳の子どもにとって、秋は四回目なのだ。ものを覚えるようになってからは——。自分はいま十九歳なので、それは十九回目の秋だった。小さな子どもにとっては、永遠に変わらない四季の巡りさえも新鮮なものなのだろうか。三十回目、四十回目、百回目の秋を、ぼくはどのような気持ちで迎えるのだろうか。

秋、と一口に言っても、その内実はいろいろである。十月はまだ時折、太陽がふと思い出したように夏の照りつけでぼくの肌をじんわりと湿らせるし、十一月は中々に寒い。そして、十二月と聞けば、クリスマスや大晦日が想像されて、なんだかもうすっかり冬になってしまったような気がするが、xxx通りの銀杏並木が色づくのはこの月の上旬から中旬のことであって、まだまだすっかり秋なのだ。先に色づくのは桜や楓で、銀杏はほんとうにしぶとい。首を長く長くして待ち、もうすっかり忘れてしまって冬の設けの気分になったころにようやく、灰色の空に彩りを添えるように黄葉する。xx山への道の風景も、当然一日一日と、少しずつ違ったものになる。

山へ至る前段階の話がずいぶんと長くなってしまった。どうにもぼくは、山そのものと同じくらい、そこへ行くまでの道が好きらしい。道すじの最終段階は、押し固められた土と色の薄い丸太でできた階段になっていて、それがおおよそ二十段くらいである。階段は狭く、両脇には笹が繁茂していて、どちらかというと、狸の文明が作った道のようだ。笹は、ひとの目で見る限りは、灌木とも呼びがたいほど低く、せいぜい膝丈くらいしかないけれど、狸からみたら立派な切通しにでも見えるのかもしれない。うん、そっちのほうがよっぽど立派な気がする。最後の階段は、設計者の意図するとせざるとは置いておいて、やはり狸の目線に合わせて出来ているのではないか。

山の上には木の椅子が二つ置いてある。二つあるということは二組が使えるということなのだが、実際には、先客がいるとぼくはひどくがっかりしてしまって、そのまま山道を下りてしまう。頂は小さく、トランポリンひとつくらいしかなくて、その場に知らないひとといるのは気づまりというものだ、なにしろぼくはその山を、やすらぎのために訪れているのだから。

頂からの景色は、特に良くはない。いや、正確にいうならば、覚えていないのだ。それだけ印象に残らない景色であったということなのだろう。しかし、それはその山にとっては、却ってプラスに働くのだ。なにしろ、一般にいい景色と呼ばれるものは、高いところから見下して、あたり一面が一望できるようなところをいうのだろうが、この大都会の摩天楼群の中にあっては、そんな景色なぞちっともありがたくないのである。御坂の富士ではないが、いい景色が見たかったら、この山を訪れることはないのだ。むしろ狸の目線になって、あたりがずっと雑木林の中にあるような感覚でいたほうが、ずっと楽しいものだろう。(もっとも、この築山を築いたひとの耳に入ったら、ひどくがっかりさせてしまうことだろうが。)

一度、あみと夜、この山に来たことがある。急遽夕食の席を二人で囲むことになり、そのまま別れがたくて、なんとなく辿りついたのだ。公園は暗く、四歳の子はいなかったが、同じ山であった。ぼくたちはベンチの上に寝転んで夜空を見上げていた。都会の真ん中だから、あつらえむきの星空はない。ただただ、巨大な穴のような闇だった。それはぼくをひどく安心させた。ぼくたちは柄にもなく将来のことなどを話し、しばらくそのままでいた。いつもとは違う風が流れていたが、それが却って心地よかった。ぼくたちは狸の夢の中で化かされていたのかもしれない。山を下りるとき、ぼくは何十年という時間を、あみと過ごしてきたような気がしていた。同時に、出会って三週間くらいであるような気もしていた。或いはそれは、あみの新たな一面に触れて、少し新鮮に感じていたということなのかもしれないし、春一番を指折り数えて待っていたその夜、ずっと変わらない落ち葉の絨毯の上で同じ闇の下にあったぼくたちの前で、時間などという忙しい人間の発明が、全くナンセンスであったということかもしれない。

今日、夏を迎えたxx山が、どんな草木を身に纏っているかゆかしくて、そこへと足を運んでみた。しかしながら——見つからなかった。はたしてぼくは方向音痴なのだ。行こうと思って行く限りは、見つからないとも限らない、そんな神秘性をその山に求めるのは、そんな愉しみを自らの方向音痴に見出すのは、少し持ち上げすぎだろうか。

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