les impressions et les expressions

夏休み

les vacances
originel, 14 juillet 2022

夏休みという響きは無限の可能性を想起させる。やってみたいことも、読んでおきたい本も、学びたい言語も……。本当はそのすべてをやり通すことなんてできないとわかっているし、何なら着手すらしないことがほとんどなのだけれど、それでも無限の時間をイメージしてあれやこれやと考えるのはとても楽しく幸せな体験で、これもまた七月あたまの風物詩って言ってもよいだろう。

夏らしいことって何だろう。イメージというのは案外適当なもので、適切な色のフィルターを選んで書ければ結構いろいろなものが夏らしく思われたりする。クーラーの利いた涼しい部屋、ひやっとする浜辺の波しぶき、舌を紫に染めるかき氷に浴衣に団扇、なんて言ったらとっても涼し気だけど、降り注ぐ太陽光線に小麦色の肌、光を反射する真っ白なポロシャツ、じんわりとまとわりつく汗、少し体を動かしたらとたんに肌が火照って、頭の血管がどくどくというさまなんかは熱と湿度の狂気を想い起させる。要は、夏なんてものはなんでもよいのだ。

さっきは文化的な夏のイメージをしたけれど、それを補強するのは思い出の中の夏休みだ。塾帰りに浴衣でいっぱいになった駅をうらみつつ歩いた帰り道、初めてひとり家を出て土手へ花火を見に行った夜、模造紙に汗が垂れないよう張り詰めて黙々と準備した文化祭、線路脇に青々と立ち並ぶ稲穂、急な雷に見舞われて先輩と避難した雑居ビルの入り口、これが最後なんだねってさびしげに笑いあったサイゼリヤの打ち上げの、へんな色になったドリンクバーのコップ、三十分だけ休憩しようねって言って、理系に進んで確実に違う進路を歩むことになる友だちと喋ったフロンティアホールの壁掛け時計、名前も知らないひとのことをいちばん身近に感じて歩いた海辺の木のデッキ——。こんなにも長々と自分の思い出を書き連ねてしまって仕方がないのだけれど、それだけ自分の中で大きなものが、夏という普遍のイメージを構成して混ざりあっているというのは、なんだか不思議な感じがするものだ。

そうだ、夏休みはこれからなんだった。今年の夏はなにができるでしょうか。半袖も買い足したいし、いろいろな言語を軽はずみに眺めたいし、春に出会ったひとびとと、もう少し深い間柄になれたらうれしいかな、いつか分かれてしまったあとも、その深さが風化で消えない痕を残すくらいには。こんなにも夢のある夏休みなのに、人生の中では、三歳に始まって二十二歳まで、たった十九回しかないらしい。そしてその十九回をぼくは使い切ろうとしている。でもそんな儚さも夏休みの一部という気もしている、八月二十三日のカレンダーのような。

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