私の詠むもの
五七五七七の韻律に載ってゐるものは、何でも短歌なのであらうか。おそらく近代の歌人たちはそれを否定するであらう。しかしながら、現代では短歌は大きな広がりをもつものとなり、純文学的なものもあれば、シティボーイ・シティガール的なライトでポップな文化を担ふものともなってゐる。では、私が読む韻文は短歌なのだらうか。
五七五七七の韻律に沿って自らを表現することを覚えてしばらくのうちは、その響きに惹かれてゐた。自分はその韻律に従って書かれた文の、自分が見て感じ取った部分を真似して何かを書いてゐるのだから、それが短歌でないとしても、それは何かなのであって、それでもちっとも構はないと思ってゐた。しかし、短歌の世界の深遠なるを垣間見てからは、軽率にそのやうなことは言ひがたくなったし、新たに知った歌の世界にもまた惹かれたから、さう思ふこともなくなった。現在では、ただただ私は短歌を何もわからずに詠んでゐるなあといふ感覚を強くしつつも、やはりそれが短歌であることを志向してゐる。
それに、切実に私の韻文は短歌でなければならなくなってきてゐる。私は短歌を詠むことで、いつもふざけてばかりゐて、傍目には偏屈にしか見えなかった祖父に少しだけ近づくことができるやうな気がなんとなくしてゐて、その思ひは祖父の死後一層募ってゐる。祖父は短歌の同人を主宰してゐたのであって、決して世に聞く名ではなかったが、紛れもなく歌人であった。
この事実は、しかしながら、短歌の要求する広大な前提の前に呆然としする私の、現在の位置を肯定するものでもある。短歌の技術は師事によって受け継がれていく。何らの結社にも属する勇気も熱情を持たぬ私はこのやうな師弟関係はないのだが、多くの歌人の中で祖父を特別な指針の上に置いてゐるといふ点では、傲慢ながらもある種の師弟関係に擬へることも可能だ。さうであれば、私は(実際のところ私が祖父から生前うけた教へは、文を必ず終止させるべきことただ一点のみであったが)単純に影響の連鎖といふ形で判定するならば、私も短歌の経脈の先にあることになる。
それに、歌人はしばしば、短歌が国の開闢から続く和歌の脈絡の最先端に立ってゐると主張する。この日本語、大和民族、天皇制を結びつける見方には反発の向きも当然あらうが、歌壇においては相当の影響力を有してゐよう。短歌が長い伝統の上にあるとすれば、そこには裾野の広さが不可欠である。さうであれば、私性といふものの表現を敢へて私がすることも、少なくとも私自身にとっては意味のあることといへるのではないか。私自身の立場を考へても、短歌を私に与へしは、一つには祖父であったが、一つには、(それが国民教育の作り出した仮構だったとしても)教科書の勅撰集の歌であったから、やはり自らの表現を二千年の流れの中に置いてゐるといへるだらう。
さういふわけで、相当に言ひ訳じみてしまったが、私は、自身の技巧が凝らされることを志向しつつ、自らの表現が常に短歌の一角を為すことを肯んじたいのである。