属人評価
ツイッターといふのはウェブサイトなのであらうか、それとも場なのであらうか。サイトといふのは場といふ意味であるから、何やら愚問を繰り出してきたひとのやうに見えるかもしれないが、少し付き合ってほしい。
小さいころに、お気に入りのウェブサイトのやうなものはあっただらうか。小さい子は少なくとも決まりの上ではSNSを使ふことは許されてゐないから、絶対に半年ROMの状態になるはずだ。ぼくも時々2chに出入りしては乱暴な表現に傷ついたり、五年間放置されてゐる個人ホームぺージを隅々まで見に行ったりしてゐた。それらのウェブサイトは、喩ふるならば博物館のやうに、何か作られたものが陳列されてゐて、それを眺める場であった。そこに必要なのはワークではあって、作者はしばしば忘れられた。実際のところ個人ホームページはほとんどひとりによって作られてゐたのだらうが、その一方向的なメディアは、作者の存在を透明化した。
ツイッターは紛ふことなきSNSであって、それはひととのつながりを前提とする。ややミーム汚染の感もあるが、いふならば出会ひのサイトである。そこでは個人ホームページとは逆に、コンテンツ性は極限まで失はれ、作者の属人性がきはめて重要な意義をもつ。「おはやう」のやうなツイートがふぁぼを集むるのも、ツイートの属人性ゆゑであらう。
しかしながら、そのやうなツイッター本来の使用は、必ずしも普遍的ではない。バズったツイートといふものは、多くのひとに、筆者ではなく内容によって評価せられるのであって、ふぁぼしたるひととツイート主との間には人間的なつながりはない。時々リプ欄で個人的な話をしたりして人間的な関係をもちかけるひともゐるが、それらはクソリプとされ排除される。(実際全くしらないひとの身の上話なぞ知ったことぢゃあないと思ふ。)万バズのとき、ふぁぼの数はデジタル化され非人称化されるのであって、10000ふぁぼが10001ふぁぼになるのは、2ふぁぼが3ふぁぼになるのとは認知的に全く異なる。
このやうに、評価にはワーク本位のものと作者本位のものとがあるのだが、自分に大いなる高揚をもたらすのは、作者本位のものであらう。そもそも一万人以上のひとに共感され面白がられるやうなコンテンツなぞ、自分が生み出さずともきっと誰かが考へ得たるやうなものだらうから、大した価値はないのだ。もちろん、古今東西のひとびとを虜にする才能を持ち合はせてゐるといふのなら話は別だ。しかし、さうでないのなら、自己の存在、自己の表現の需要といふものはその多様性、非互換性にあるのであって、そこでは実に、評価は量よりも質によって喜びを刺戟する。その質とはしばしば、属人性をともなった評価のことである。
しかしながら、属人化といふのは怖いことでもある。非人称的な評価は、作者でなければ、実は作品に依拠してゐるのであるが、属人化とはその反対に、作品への依拠の度合ひが極限まで弱められることを意味する。属人的な評価といふものも、そのワークと無関係に行はるることは決してないのだが、人称が基準になる以上、今度はワークがデジタル化され、すべての表現が、人の評価を上下させる要素へと一元化される。てうど恋愛シミュレーションゲームの好感度ゲージのやうなものを想像していただければわかりやすいであらう。この属人性といふものは、ワーク本位の評価にはない高揚感をもたらすのであるが、それはしばしば振り切れ、破局する。さうすると、何かを好むといふ静的な時間を維持することはもはやできない。ワークを好み、同じ作者による別のワークを探すやうになったときから、ワークを好むといふ行為自体の終はりが運命づけられるのだ。
ツイッターの怖いところは、この属人化の過程が極めて自然に行はるるところだ。そこに無自覚でゐては、いつかはすべてが破局してしまふのではないかといふ恐れがずっとある。この属人化はしばしば認知といふ言葉で表されたり、実在感といふ指標で語られたりする。相互認知や実在性は高揚感をもたらすが、それを少し恐れてもゐることがあるのは、ぼくがそのひとのワークを静的に好いてゐることを端的に表してゐる。