ひかり
あの日、ひかりを感じた。ひかりはわたしのすぐ隣に差していて、そのきらめきに、わたしは、じぶんがかげになったことに気づかずにいた。ひかりは、掴もうとしても掴めなくて、かたちもぼんやりとしていて、それにそもそも見えなかった。ひかりは何かにあたって反射し、あたった物体の存在をわたしに教える、そういうものであって、ひかりが直接に見えるわけではないのだ。だからこそ、わたしはひかりをなるべく記憶にとどめようとして、ひかりを通じてどんなものが見えたかを、丹念に、考えようによっては執念深く日記に書き留めていた。ひかりがあったからこそすべては輝いて見えた。
ひかりはわたしにだけ感じられていた。そのことはわかっていた。わたしはともだちと出掛けているところだった。ともだちも、きっとどこかでひかりのことは知っていたことだろう。でも、それはわたしの隣でではないのだった。それに、ひかりはひとりで感じるものだ。ひかりは決して姿を現さず、間接的に観測することしかできないのだから、それは当然のことだった。しかし、そのともだちが、わたしがひかりを感じられるようになるために、なんらかの働きをしていたことはきっと間違いないだろう。ひかりはいろいろなところに現れていたが、そのともだちといたときに、ひかりはいっそう眩しく強烈にわたしの躯を焼きつけるようであったから。じぶんがひどくやけどをしていることに気がついたのは、お風呂に入って、ひとり考えごとをしていたときだ。一度気がついてしまえば、やけどはひりひりと、休むことなくわたしにアピールをしつづけた。
やけどから逃れるためにわたしはそのともだちによく連絡を取るようになった。ひかりを眩しがっているうちは、やけどの意識から逃げることができたのだ。でも、そのあとやけどはいっそうひどくなっているのだった。それは麻薬のようなものだったのかもしれない。
そのともだちに、ひかりの話をしてみた。案の定、ともだちもひかりのことを知っていた。ともだちはそのとき、もうあまりやけどに苦しんではいないようだった。というのも、ともだちが感じるひかりは、一方的に差し、照りつけるようなものではなくて、もっと包み込むようなものだそうだったから。ある日やけどに耐え切れなくなって、お酒を飲んでいたら、それからひかりの感じ方が変わって、やけどはひいていったのだそうだ。麻薬どうしが効力を打ち消しあっているのだろうか。
みんながやけどに苦しんでいるわけではないと知ると、やけどはいっそう確かなものに感じられた。でも、それも何か月かすると忘れてしまった。そのころから、ともだちは少し忙しくなってきて、わたしはひかりを感じる機会を失っていっていたし、それから、なんだかひかりの扱いに長けてきたようだった。ひかりをひとりで浴びることは、それなりに気持ちのいいことだった。やってはいけないことは、ひかりを虫眼鏡に通すことだった。それは影を作り出すし、なにより、真ん中はすごおく熱くなるので、やけどのもとだった。
ある朝ともだちを見たら、それはダイヤモンドだった。ダイヤモンドは、黒い石炭が強いストレスに耐えかねて、きれいになった姿だ。そのことに気づいてすぐ、わたしは、それはわたしがにわかにひかりを感じることはできなくなったからだと知った。それはひどく突然で、なんの感慨も浮かんではこなかった。わたしはひかりを惜しんで、日記を読み返した。それは、紙とインキだった。じぶんの字で、いろいろなことが書いてある。例えば、エネルギーの量は、質量(キログラム)に900京を掛けたものにおおよそ等しいこととか。それは理解のできることであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。いろいろなものはひかりの器であって、ひかりがなければ、何の役にも立たないのであった、それでもそれらの器は相変わらず、ひかりを浴びる前と変わらず、わたしのお気に入りだったけれど。わたしはダイヤモンドの、色眼鏡のない透明さが好きなのだったし、そのかたくなさは、良いときも悪いときもあった。ひかりはその全てを見えなくしていた。
わたしはひかりを避けて夜を好んだ。夜になると、わたしと宇宙のさまざまな物体はみなひとりぼっちになった。互いのことを見つめながら、決して互いにはならなかった。それが、互いを知っているということだった。ひかりの器になって手に入るきらめきはじぶんのものではないと、夜にはみながわかっていた。夜であるうちは、わたしたちは知り合うことができて、かつ、わたしたちでありつづけることができた。
そういえば直接見ることのできるひかりがひとつだけあった。太陽だ。それを見続けることは、いわゆる常識外れってやつで、忘れていたのだ。だって熱すぎるもの。月は最大の被害者だった。本当は大きくて角のない石ころなのに、ひかり中毒者たちは、夜になると月が太陽のかわりをすることを期待した。中毒者たちは月に吸い寄せられるようにして、実のところ、本当の月のことはすっかり忘れてしまっていたのだ。中毒者たちがもとめているのはひかりだけだった。ひかりを照り返してさえいればあとはなんでもよいのだった。中毒者たちは、ひかりが見えないひとを莫迦にしていたし、ひかりを違うふうに感じているひとたちのことも気味悪がっていた。ひかりに操られていることに気付いていないんだろう、夜になれば、きっとわたしたちはみな同じ宇宙の物体だってことに、中毒者たちも気付くだろうに。
ひかりを与えているのが太陽だったってことは、いわれてみればその通りだった。だって太陽はかみさまだもの。地上でいちばん尊くて、力があって、こわいかみさまだ。太陽がいなければ稲は枯れてしまうし、我々は生きていくことができない。でも、我々がいなければ、太陽だって神さまでいることはできない。太陽は我々をうまく幻のなかへと誘い込んで、我々がひかりから目を逸らすことのないよう仕向けているのだろう。そうやって我々は何万年も生きてきたし、これからもずっと、嘘みたいなひだまりのなかに生きていく。わたしは夜が好きだ、でもいつか、また朝が来て、昼になるのだろう。それはとってもおそろしく、うらめしいことだ。