les impressions et les expressions

わたしの丸ノ内線

mon symbolisme de la ligne Marunouchi
originel, 26 août 2022

丸ノ内線をご存じでしょうか。日本列島の25%、世界人口の0.4%は関東地方に住んでいるので、ご存じの方も多いかもしれません。丸ノ内線は東京で二番目に出来た地下鉄で、高度成長が本格化する前の1950年代、戦後最初の地下鉄として完成しました。もともとは戦前に銀座線の支線として計画されていた赤坂見附~新宿のルートを広げたもので、そういう意味で東京が、戦争の前の1930年代に復したことを記念するような路線でもあります。

車体は真っ赤なボディ。ひと昔前の電車は中も桃色だったので、乗ると全身が苺色になっていました。色だけでいうと、御堂筋線や桜通線と仲間かもしれません。赤色の地下鉄を比べっこしてみるのも面白いかも。

通っているところを見ても、東京のいろいろな面を味わうことができます。歓楽街の池袋、お茶大まします茗荷谷、打球の響く後楽園、赤門構える本郷に、学生街のお茶の水、ビル立ち並ぶ大手町、旅人通う東京駅、夜も眠らぬ西銀座、役人籠もる霞が関、二つ頭の国会に低楼犇めく四ツ谷駅、都会のオアシス新宿御苑に場末の風の花園神社、高殿見下す西新宿に家々しづけき中野坂上、そして最後に荻窪は山の手の賑わい残る商店街——。と、ざっとここまでほんとうにいろいろな所相が現れるのが丸ノ内線です。

そんな丸ノ内線は、古いだけあって地下のごく浅いところに作られていて、川や谷があるところでは、簡単に、ひょっこりと顔を出してしまうのです。

丸ノ内線が地上に出るときはみんなあかるい方を見ている/岡本真帆『水上バス浅草行き』

地下鉄ってすごく未来的な乗り物で、近代的で、合理的です。でも、そこで暮らす人間は生身。都会の風を切って颯爽と歩いていても、知らず知らずのうちに窮屈さを感じることもあるのかもしれません。地下鉄もそのひとつ。私は地下鉄の沿線で生まれ育ったので、さほど意識もしていなかったのですが、JRや私鉄の郊外電車に乗ると、高架からどこまでも続く家々と広い広い青空の開放的さにびっくりします。だからこそ、丸ノ内線が後楽園やお茶の水や四ツ谷でふっと地上に出るとき、そこに都会文明からの一瞬の開放、天国の光を見るように、乗客はあかるい方を見てしまうのかもしれません。

みんながあかるい方を見ていることに気づく作者は、あかるい方を見ていません。かといって暗い方を見ているわけでもなさそう。暗い方はちょうど反対向きのはずだから、そうしたら乗客みんなと目が合ってしまいますね。とすると、やっぱり作者はそのまま、みんなの方を見ていたのでしょうか。それはどうしてでしょう。何かいいことがあって、世界をじっと見つめていたい気分なのかな。でもそうしたら、一緒にあかるい方を見る気がしますね。そもそも作者は、みんなの中には含まれていないようです。何かの拍子に、世の中とずれてしまったのかもしれませんね。

どうして丸ノ内線なのでしょう。実際地上にひょこひょこ顔を出す地下鉄はあまりないので丸ノ内線はただひとつの選択肢なのですが、丸ノ内線の古さ、近代のあまりの長さのなかに、人々の生活臭が染みついてしまった感じが、やっぱりここは丸ノ内線でしょうっていう感じがしますね。銀座線は戦争の前からあるから、なんだかハイソ過ぎて違うし、日比谷線より後は、高度成長期以降しか知りませんからね。

丸ノ内線が舞台になっている小説といえば、映画化もされた浅田次郎の『地下鉄(メトロ)に乗って』があります。主人公は山の手の住宅地で1950年代に生まれた中小企業の営業。地下鉄の駅につながる地下道ぞいの事務所で働いており、一日乗車券を買っては、東京をアリの巣のごとく歩き回る日々。一方で、幼いころに迎えた丸ノ内線開業の祝賀ムードの中では兄の自死を迎えており、地下鉄には複雑な縁をもった存在です。

戦後80年を控えた今、戦前はすっかり遠いものとなり、戦前と戦後の間には、何か大きな壁があるように見えます。2002年生まれのわたしにとってはなおさらのものです。しかしながら、戦前と戦後をまたいで生きた人間はたくさんたくさんいて、そういったひとたちが昭和の日本を支えていたんですね。その中でわたしたちの父母は生かされてきたわけです。主人公は戦後の生まれですが、物語中でなんどもタイムスリップして、自分を生む前の父親に出会います。それは日本の近代史を追うことでもあるのでしょう。もちろん、戦前の臣民としての教育を受けてきたひとたちの世界観は、自由で公正な社会と必ずしも相いれない側面をもっているかもしれません。しかしながら、そういう要素も含めて、わたしたちの東京が連綿と歩んできた歴史なのだなあということが思い出されます。

冒頭で、丸ノ内線は戦前の計画を戦後に実現させた存在だと書きました。そんなところにも、丸ノ内線の泥臭さ、きな臭さ、人間臭さがあって、この2020年代という未来に生き続けているのではないでしょうか。

なんだか辛気臭い話になってしまいました。そういえば、丸ノ内線のルートは鏡文字のコの形をしています。池袋から新宿まで、埼京線でまっすぐ南下すれば5分で着くところを、この古い地下鉄に乗ると大きく迂回をして、35分の道のりを歩むことになるのです。日比谷線より後の地下鉄を見ると、皇居を避けるようにぐにゃぐにゃと曲がってはいますが、概ね東京の街を真っ二つに切るように、あるところから別のところへと決まった方向を持って進んでいきます。丸ノ内線と日比谷線以降では、計画年代と計画思想が少し違うのです。丸ノ内線のうち相当の区間は、何度も書いているように戦前からあったものですが、いくつもの路線の計画をつなぎあわせてコの字の路線を作ることに決めたのは戦後のことです。そのころ東京の街は、まだ今の風船ガムのような膨らみを迎える前で、こじんまりとしていました。東京市は昭和の初期に周辺の町村を飲み込んで大きく拡大し、いまの東京23区とだいたい同じ範囲となるのですが、1950年代を迎えても、必ずしも市内全域が密集住宅地ではなかったと思います(というのも、実は詳しくは知らなくて、これは憶測にすぎないのですが、浦安や行徳には1960年代を迎えても水田がありましたから、1950年代には東京23区の周縁部にも畑があったのではないかと思うのです)。それに当時の都市交通は、国電や私鉄はありましたが、街中はもっぱら都電に頼っていましたから、チンチンと音を打ち鳴らしながらのそのそと進んでいく電車と共に、町や人のペースも随分ゆったりとしたものだったと思うのです(オリエンタリズムかもしれませんが)。そしてそんな時代に計画された丸ノ内線のことですから、どこか遠くの衛星都市から大量の労働者を一直線に都心へ運ぶものではなくて、ややゆったりとした作りになっているのではないでしょうか。(確か欧米のどこかの都市を参考にしていたんだったと思います。石造りの街並みは新陳代謝が遅くて、それだけゆったりとした感じがしますね。)そのあと日本は、中学生が夜中に足の痛みを感じるような急速な経済成長を遂げましたから、そのゆったりとした空気感が残っているのは、丸ノ内線だけということになります。

そういえば丸ノ内線は、地下鉄サリン事件を経験した路線でもありました。まだ事件はかんぜんには過去になっていませんから、詳しくいうことは差し控えますが、東京の、日本のさまざまな時代を経験した地下鉄という性質は、かなしくもここでも当て嵌まってしまうようです。

ふたりきりになったとしても丸ノ内線ですかって言うだけだろう/鈴木晴香『心がめあて』

これはわたしのいっとう好きな歌のひとつです。軽々しく出さずに取っておきたい気もしますが、べつにぼくの秘蔵の歌ではなくて、印刷されて全世界を駆け巡っている作品ですし、それによくよく考えたらこの歌のためにこの記事を書いているようなものだった気もするので、よしとしましょう。この歌の主人公は、どこでこのせりふを思っているのでしょうか。丸ノ内線が通る繁華街はたくさんありますが、なんとなく、池袋、あるいは新宿な気がします。JRに乗るひと、私鉄に乗るひと、たくさんのひとが散って行って、最後に地下鉄が残るんですね。ざっくばらんな印象ですが、JRの沿線に住んでいるひとは都内の移動もJRで、地下鉄の沿線に住んでいるひとは都内の移動は地下鉄で済ませたがるような気がしています。となると、この歌の主人公も、「ふたりきり」のもうひとりのひとも、地下鉄の沿線に住んでいるのでしょうか。丸ノ内線の沿線に住むのは、特に池袋から新宿までの区間ではなかなかないことですから、そうとなるとふたりとも、最後には分かれて違う路線に乗り換えることになるのでしょう。そもそも主人公は丸ノ内線だったんでしょうか。そしてもうひとりのひとは——。丸ノ内線はコの字の路線ですから、いろいろな路線と路線を結ぶ糸のような存在なわけです。それは、何かを目指してまっすぐに進む近代の、いろいろな理想の裂け目を弥縫する生活のやさしさのよう。でもそれはあくまで、お茶の水や四ツ谷の一瞬の光のように幻想であって、ほんとうはないものなのかもしれません。丸ノ内線を降り、いつもの最寄りの路線に乗り換えたとき、夢から醒めて、もっと近代的でやさしくないほんとうの日常が待ち受けているのかも。そして丸ノ内線の駅間は短くて、その夢は、想像していたよりもずっと儚く終わってしまうのです。少しくらい、ふたりとも、丸ノ内線であってほしいような気がしてきますね。

そういえば、丸ノ内線は第三軌条といって、架線の代わりに、ふつうの線路の横についている三本目のレールに電気が通っていて、集電靴という、車体からぴょこんと出ている金属板がこのレールを擦りながら電気を取り入れているのです。このやり方は、大阪へ行くと結構見られますが、東京では戦前に出来た銀座線と、それから丸ノ内線だけ。ちなみに20世紀最後の年にできたいちばん新しい都営地下鉄であるところの大江戸線はまたべつの仕組みで、リニアモーターを使って動いています。さて、そんな第三軌条方式だと、線路が枝分かれしたり、交わったりするときに、どうしても三本目のレールが途切れるタイミングが出てくるのです。電車の走りは前後の車両の駆動力や慣性によって問題なく進むのですが、昔の電車では、この切れ目のところで車内の電気が一瞬ばちっと切れていました。代わりに車体の内壁に仄暗い橙色のランプがついていて、それが点灯したそうです。(今では隣同士の車両で電気を融通し合っているのでこの現象はおきません)。なんだか治安が心配な気もしますが、突如暗くなる車両の、乗客を淡く照らすナトリウム色の光というのは、なんだかやさしげな感じがしますね。一度味わってみたかったなあと思うことがないでもないです。

そんなわけで、丸ノ内線の話をしてきました。なにせわたし自身の想像力を働かせて書いた記事ですから、地理や歴史、文学、交通にお詳しい方からすると、ひょっとすると相応しくないところもあるかもしれません。ですから、丸ノ内線という表象にたいするぼくの個人的な捉えかたをメモのように書き留めたものくらいに思ってくださったほうがいいかもしれません。東京をまわる電車というと、どうしても山手線の印象がつよいですが、丸ノ内線は、時代的にも空間的にも、東京のさまざまな有りさまを経験してきた、とっても想像力の広がる路線です。もしこれをお読みのみなさんで、東京に馴染みのない方がいらしたら、よかったら丸ノ内線を軸に、わたしの街東京を散歩なさってみてください。

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