点の虚構性
記録なんてしないほうがいいのかもしれない。記録は動作の一回性を過度に強調し,忘れてしまったものや繰り返せないものへの悲しみを喚起しつつ,そこでは持続や習慣といった幸福が無視してしまうから。
そもそも一回性の動作とは,ある出来事を点としてとらえるものだ。しかしながら,点などというものは実のところ仮構である。点は常に何かの部分としてしか存在せず,単体の点などというものはない。そのため全く概念的であって,想像の産物であり,点が存在するか否かは,そうした想像をするか否かという各人の裁量にゆだねられている。
また,始め・中・終わりといった分け方もそれゆえ間違いだ。始めと終わりは点であって,存在しない。中こそが幅を持つものであって,始めと終わりなくしても全ては中を以て表現できる。またこのことは,点としての始めと終わりが存在しないことの傍証でもある。
点は大きさを持たないものである。大きさを持たないものに,どのような愉悦が存在しうるだろうか!快楽を伴った全体は,点に細分化された途端にその質的役割を失うのである,全体を構成する点をすべて搔き集めたとしても。
実をいうと,記録がとらえる一回性の動作は,そこまで点ではなく,そこまで質的役割を失ってもいない。しかしながら,記録が惹起するノスタルジーやニヒリズム,ペシミズムはみな記録のもつ点とのアナロジーによるものだ。仮想が惹起するこれらの否定的感情は,仏教思想がそうであるように,しばしば自己に積極性の放棄を迫る。しかしながら,これらの感情が制御可能なものであるならば,やはり積極性の放棄もまた必然性を持ち得ないものだ。
むしろ,まるで年表のような記録などというものは放棄して,記憶による質的役割を持った歴史を回復し,現在を歴史の中に位置づけることによって,より本質的な悦楽を享受することができるだろう。