外国語を読みたい
外国語を強烈に読みたい,という感覚がなんとなくずっとある。しかし,いざ読み始めると,自分が読める英語やフランス語の文章は,目新しさもなく,かといって日本語ほどすらすら読めるわけでもなく,単なる読みにくい文章に思えてしまう。もちろんそれが楽しいときもあるし,英語やフランス語は好きなのだが,ではこれらの言語の文章を読むことによって,当初に掲げた感覚が満たされるかといわれると,少し微妙だ。では全く読めない言語はどうかと言われれば,読めないので当然面白くない。辞書を何度も引く作業は苦痛であるし,そもそもそういう言語は文法もほとんどわかっていないので,見出し語の形も導けなければ,文構造をとることもできない。ではこの欲求はどのように充足することができるだろうか。
外国語を読みたい感覚がもっともよく満たされるのは,したがって,バスク語やドイツ語のように,なんとなくわかるような気がする,簡単な分なら文構造は一目瞭然でとれるけれども,かといって辞書を引かずともだらだら読み進められるわけでもない,そういう言語になる。もっとも私は辞書を引くことを,きっと多くのひとがそうであるだろうのと同様に厭うので,実際にこれらの言語の文章が読めているかと言われると微妙なのだが,ともかくもそれなりに豊かな経験に思われる。
きっと,外国語を読むということは,言語が不透明化される経験なのだと思う。母語である日本語は極めて自然で,言葉を使っているという特段の感覚もないままに入出力される。仮に言葉を使ったとしても,日本語を使用するということは極めて無標で透明な選択であり,言語を選択していない時にこそ日本語を使用するのだといえる。しかしながら,このような言語は目に見えず,対象化することが出来ない。嗜好の対象としがたいのである。だからこそ,明らかに無標ではない,自ら選択した結果として立ち現れる言語というものを求めているのだと思う。例えば日本語でも,仮名遣いを変えてみたり,あるいは普段表記されないアクセントに注目してみたり,方言形に思いを馳せたりと,そういった非直感的な内容を意識すれば,思考の対象としてみることができるから,また面白いものになる。また,日本語を使用すること,現代仮名遣いを使用するということが選択の結果として現れてくるから,これまた面白いものだ。
日本に暮らす私にとって外国語とは基本的に文章によるもので,音声言語自体が実は若干非直感的である。特にフランス語や中国語のように綴りと音声との対応がわかりにくいものは尚更だ。とすると,外国語を読む欲求を満たすにあたって最もやりやすい非直感要素は音声かもしれない。そもそも音声自体が今日においても立派な研究対象のひとつであって,決して自明ではないことを考えればそれもまた納得だ。音声というものがきわめて生体的であるために,標準化という近代的・形式的作業からは漏れやすいのかもしれない。
そんなことを考えて外国語を読んでみるといいのかもしれない。ところで,さて,何を読もう──。