民主国家と儒教
最近のゼミで,レポートのテーマ立てに際して,敢えて論争的なテーマを設定する効用について話題に出た。そこで今回は,(やや陳腐ながら)常識と化しつつも絶えず批判にさらされる西洋近代の政治思想を,しばしば本邦においてその思想と対立的に紹介され,攻撃される儒教思想と対置しながら批判的に検討することにより,両者を踏まえたよりよい国家の構想について考えを進めることとする。
西洋近代の政治思想における国家の構想であるところの立憲主義,すなわち憲法(constitutional law)を立てて権力機関の構成を決める思想は,個人をもっとも本質的なものと認めて,これに国のあり方を決定させようとするものである。すべての個人が平等な存在として等しく国政に参与し,国家を構成する。個人は自らの自由な意思に基づいて国家のあるべき姿を構想することができ,各個人の構想は平等な資格でその優劣を競い,勝ち残ったものが国政に反映される。
しかしながら,個人という見方が近代の想像の産物にすぎないことは,兼ねてから言われている通りである。西洋近代においては,ここでは,個人の能力の差異を顧みられない。それは,個人が同時に合理的存在であるからである。合理的な個人は,便益の大小によって,取るべき行動をただ一通りに決められている。従って合理的な個人に自らの意思に基づいて判断を下す余地はなく,結果として個人の能力の差異が顕現する機会もないから,結局個人の能力の差異を顧みる必要は透明化されるのである。このような個人は,単に存在しないばかりでなく,矛盾を孕んでいる。合理的な個人は自由に意思決定をすることができないから,民主的手続きは実質的に不要である。立憲主義が同意論を当為でもって成立したものと見做すのはその実例である。しかしながら,自由に意思決定ができないならば個人は本質的ではなく,実際には合理性を考案した賢人が独断で国の構成を牛耳ることとなる。(実際に現代の民主国家の構成を考案した人物は,ルソーにモンテスキューを初めとして,列挙することのできる程度の数にすぎない哲学者たちである)。西洋近代は個人を擁護するあまりにパターナリズムを禁忌としたが,西洋近代が自身の価値を敷衍することそれ自体が一種のパターナリズムになるという欺瞞は隠蔽されてきた。
儒教の国家観は,「修身斉家治国平天下」に基づく。すなわち,自身を修めることからスタートして,最終的に国家の統治へと行きつくボトムアップ型の構成を取っている。国家の前に人間一人一人を前提に置く考えは,立憲主義の同意論に通ずるものがあり,社会の構成として,アナーキーな原始状態の想定が古今東西を問わず普遍的に見られたことをあらわしているだろう。しかしながら,架空の個人を出発点として架空のボトムアップ構造を論ずる西洋近代と異なって,儒教は人間一人一人を平等とは見なさない。人間には明確な序列が存在し,その究極的な指標は徳である。徳は,人の上に立つに値するかという点における序列であり,その面での能力によって規定されているから,一種の能力主義ということができる。しかしながら,その序列は決して専制を招くものではない。下の者は上の者に対して忠誠を誓うが,全く同時に,上の者は下の者に対して恕を尽くすことが求められる。この恕の力量こそが,上の者を上の者たらしめているのである。両者の関係は相互性をもち,ある種の役割分担ということさえできるであろう(管理する者とされる者が必ずしも上下関係にないことは,雇用関係の相互性を見れば,現に行われていることである)。儒教的統治はパターナリズムではあるが,それは儒教的価値観において批判の対象にさらされるものではないため,少なくとも自己矛盾をきたしていない。儒教に基づく政治は,平等の代わりに相互性の概念を導入した,ずっと現実に即しており,無理のない考えである。
民主国家における選挙がどのような性質をもつものであるかは,投票行動研究という名で実証的に研究されてきた。というのも,選挙のもつ性質があまりに抽象的であるために,観念的な議論を繰り返していても,それを現実の民主政治に正統性を付与する手段とすることができないからである。争点投票は結局のところ複雑すぎて有効に機能せず,結局のところイデオロギーというヒューリスティクスに基づいて決定される。業績投票,争点投票,その他いかなるモデルを取ったとしても,そもそも議題の数とそれに対する連続的にありうる各有権者のスタンスに対して,候補者の数は有限・離散的であり,結局は政策パッケージを見て一人を選ぶという,選挙王政の様相を呈している。
この状況を,あるいは革命と描写することは可能であろう。ここでの革命とは,近代市民革命ではなく,放伐と対置される易姓革命である。儒教における上下関係は相互性をもつものであるから,下の者が上の者を選ぶことは可能である。実際の儒教思想の運用においては,徳のあるなしは,国家の君主という極めて上位の存在を除いては,年齢や性別,身分といったもので決定されてきたが,これらは徳というあいまいな概念に対するヒューリスティクスであり,必ずしも本質ではない(本質ではないものをそうであると誤解させ,一つの政治哲学である儒教思想を思考停止へと追い込んだのは,科挙の教条主義であろう)。このようにして,実に選挙と代表制民主主義は儒教によって説明することが可能であり,またそのような説明は,架空の概念ではなく,家族を出発点とする現実の人間関係の類推から展開されているために,現実の民主政治の運用にあたってやりやすい。
一つの問題は,恕を以て下の者の利益を代弁する上の者が,下の者と価値を共有しているわけでは必ずしもないことである。これは,先ほど内部の矛盾が生じないという一言によって片づけた,パターナリズムの問題の再燃でもある。このような儒教的説明を用いたとしても,下の者に対し好きなようにやらせてやることは重要である。もっとも,すべてをストイックに規律する君主が名君であるとは,歴史上あまり言われていないようだ。このように,儒教的説明においても,自由の概念を持ち出すことは必要であるし,実際西洋近代の個人を,自由意志を持ちえぬものとして否定するのであれば,対抗言説はこれを包摂するものでなくてはならないだろう。更に,儒教の中で最も終局的な善の実現が平天下であるとすれば,最も原初的な実現は修身である。これは,個人がそれぞれの善の構想に従うことを潜在的に可能としており,善の複数性を内包し得る観念である。
このように両価値観を批判的に検討した結果,私にとって最も重要なものは,自由意志,そして善の複数性であることが分かった。対して,理性と平等は優先順位の一つ落ちる概念であった。また,西洋近代の思想は敢えて,架空の概念である個人を出発点とすることにより形而上の議論に陥りがちであり,そのために現実に即しなかったり,自己矛盾をはらんでしまったりすることがあるが,儒教思想は修身を出発点とすることにより,パターナリズムの自己矛盾に陥った西洋近代とは異なる方法で善の複数性を擁護しつつ,現実に即したボトムアップ型の政治を構成する理論を有しており,現代の民主政治をよりよく正統化し得る可能性を秘めていると言えるだろう。
なお,この記事はほとんど何も見ずに意見を書いたものなので,西洋近代の思想もしくは儒教思想について理解の欠如や遺漏があるかもしれない。(ぱっと思いつく中では,実はロックは国家を論ずる前に家族を論じているため,一部儒教精神と思考の過程が重複し得ることが挙げられるが,私はその論点を丁寧に追っていないのでここでは議論に反映させることができない。ただしロックが最終的には架空の同意論に立脚していることは確かである。)しかし,この記事の最終目的が,従来の思想の批判ではなく,その止揚としての国家の構想の提案であることを踏まえれば,やはり主張としての一定の正当性は保たれるであろう。
(2023.04.27補足)東洋思想の本読みたいなあと思ってるのにまだ読めてません。Wikipediaでさらーっと読んだだけなんですけど,朱子学では個人の欲とか意思が介在するのをなくして道理に沿った判断ができるようになることを良しとしているらしくて,そのへんは合理的近代人とそう相違ないかなあっていう気持ちになっています。それからミルは『自由論』の冒頭で彼の論ずるところの自由が自由意志仮説とは無関係の,(政府を含む)社会が個人に干渉しないという自由であると断言しており,まだ論考が足りていないのですが,もし両者が明確に分離し得るものであれば,また上記の論には難点があるということになります。
(2023.06.30補足)より公正であることを目指すために平等を重視する考えかたは確かにあるが,基本的人権の言うところの平等権がすべての分野における平等を志向しているとは言い難く,そもそも自由と平等は両立不可能な概念であるからして,このような観点から基本的人権を論難することは適当ではない。そもそも基本的人権とは,自身の身体と精神の所有権が自身に帰属することを出発点としており,社会契約説においては,それらの所有権から生ずる自身への権利の一部を委譲することによって政府が設立されているのである。それゆえに基本的人権が求めるところの平等権とは,日本国憲法が「法の下の平等」を主張している通り,公益のために政府が自身に対して行う干渉が公正なものであること,そして自身の権利の一部を委譲して成立しているが故に各人が政府に対してもつ権利が公正に調整されることを要求しているといえる。この考え方を上記の儒教的相互性に応用するならば,上の者が下の者に対してもつ恕の量や質が公正なものであることを要求するのであろう。