AI司法と民主主義—ダールの基準を適用して—
問題
「『何やっても無罪しか出ない…』ChatGPT模擬裁判、企画の東大生がピンチ直面 開廷日は5月13日」という記事が,SNSで注目を集めていた。この記事は,東京大学の学園祭での企画である,ChatGPTを用いた模擬裁判について,主催した学生に取材を行ったものである。その中で,主催者の学生が,この企画の主旨について,以下のような発言を行っていた。
三権分立で、司法権は多数決民主主義から一番縁遠く、知識を持つエリートが多数派の暴走を防ぎ、マイノリティの権利を守るという役割があります。
他方で、司法権があまりにも浮世離れするのも困るため、市民が参加する裁判員裁判なども始まりました。つまり、司法権はエリート主義と民主主義の緊張関係の中で正当性が保たれています。
そこにAIを導入すると、ChatGPTのような大規模言語モデル(LLM)は、あらゆる文章を学習しているという点で『民主主義的』でもあるし、データセットによっては過去の判例を重視する『エリート主義的』なものにもなりえます。
司法にAIを導入するとしたら、我々はどちらを求めるのか。模擬裁判を通して、将来の司法のあり方を問題提起できるのではないかと考えました
ここで気になるのが,「あらゆる文章を学習しているという点で『民主主義的』」という部分である。これは本当だろうか。どうして「あらゆる文章を学習」することが「民主主義的」と言えるのだろう。この言葉を聞いて私が思い起こしたのは,ダールの『ポリアーキー』で述べられた,包括性という基準である。
そこでこの記事では,現行司法とAI司法について,『ポリアーキー』に沿って評価を行い,その結果について検討することで,学生の主張についてもう少し深く考えてみたい。
ダールの体制分析について
民主主義とはどのように定義されるものだろうか。ひとつの考え方は,「国民の声が政治に反映される体制」というものだろう。しかしながら,国民の声というのは難しいものである。私も国民,あなたも国民,私とあなたは違う意見を持っている。ではどちらの意見を反映させればいいのだろう。多数者の意見をそのまま反映させることが,国民の声を聞くということなのだろうか。それでは少数者は国民ではないというのか。
この困難を克服するために,ロバート=ダールは,民主主義を手続的に分類することを思いついた。但し,民主主義という言葉は,様々な時代や場所,文脈によって非常に多様な用いられ方をしている。例えば建国間もない米国で,民主主義という言葉が,ジャコバン派の恐怖政治を連想させるような非常に悪い響きの語であったことは広く知られている。そこでダールは,彼が手続的に分類した,西欧諸国の政治類型を,anarchy(為政者がいない=無政府),monarchy(為政者が一人=専制)からの類推で,polyarchy(為政者が多数)と名付けることにした。
ダールによる同名の書(『ポリアーキー』)の中で,政治体制は二つの観点に基づいて分類される。二つの観点についてそうであるか,そうでないかがあるので,都合四つの体制に分類されることになる。
観点の一つ目は包括性である。つまり,すべての人々が政治に参加できるか,そうではないかだ。そして二つ目は異議申し立ての自由である。為政者の施策に対し,異議を申し立てる,例えば表現の自由や集会・結社の自由といったことが守られているかどうかが二つめの基準だ。
なお,二つめの基準を競争性とすることもある。ここでの競争性とは,例えば選挙で与党が交替するように,為政者候補同士が競争しあう環境にあるという性質を指す。異議申し立ての自由と競争性は若干異なる指標と言えるが,競争性を重視する見方は,より実質性を重んじたものといえる。というのも,仮に表現の自由が保障されていても,為政者が自らとは異なる意見に全く耳を貸さず,軍隊や警察を用いて強制執行を繰り返していたら,それは民主的とはいえない。したがって,表現の自由が為政者に影響をもたらして初めて,この基準は意味のあるものとなるのである。ダールは確かに民主主義を形式的に定義しようとしたのではあるが,その判断基準として異議申し立ての自由が選ばれたことには意味があるはずである。そこで基準を杓子定規に判断して,その基準が政治体制の分類にとって重要である意味を考えなければ,全く無意味である。従って,異議申し立ての自由について考えるときは,同時に競争性,つまり異議が政治にどれほど影響を与えることができるかという効果の面まで考えるべきである。
司法の民主主義を分類することについて
そもそも民主主義と言われれば,一般に意識される具体的な実現は選挙である。日本の国政では立法府の議員のみが直接選挙され,米国や日本の地方政治では行政長官もまた選挙で選ばれる。しかしながら,日本において司法での民主主義が意識されることは少ない。
そもそも,立憲デモクラシーのもとでは,司法は違憲立法審査権を行使して,議会における民主主義の暴走を抑える存在である。また次項でも触れるが,裁判官は国民の中から民主的に選ばれるわけではなく,一部のエリートである。従って,そもそも民主主義と司法とは縁遠いものともいえる。
一方で,問題の記事で取材を受けた学生が提起したように,民主主義は国政の根幹となる価値観であり,それは当然司法分野でも意識されるものである。国民の声を裁判に反映させることを目指して,大正期に陪審制が,平成期に裁判員裁判が導入されたのもまたこの価値観に沿ったものである。(ところでひとつ前の段落で「民主主義の暴走」といったとき,ここでの民主主義は議員が選挙で選ばれたという手続きの観点から評価された体制の一つであったのに対して,この段落での民主主義とは価値観の一つである。このように一つのまとまった文章でも民主主義は多様かつ曖昧に用いられざるを得ないのだから,ダールが敢えて彼の分類したところの体制をポリアーキーと命名しなおしたことの意味も,きわめてよく分かるであろう。)
そもそも現代で権力分立といえば,立法・司法・行政の三権が分立することであるが,民主政が敷かれていた古代のアテネではそうではなかった。裁判は全市民から構成される民会が担ったが,この民会は行政機関である評議会が提出する議案を審議する場でもあったし,ペロポネソス戦争の後立法委員会が設置されるまでは,民会の決定は法としての機能も果たしただろうから,立法・行政・司法のいずれに当たるかは不明瞭である。また,かの有名な陶片追放が三権のいずれに当たるかもよく分からない。このように,司法権を含めた三権の分類はモンテスキュー以降のものである。したがって,例えば裁判官の地位を含めて,犯罪を裁くという役割をもつ機関がどれほど民主的なものであるかを評価すること自体は,あながち荒唐無稽なものでもない。
それでは,現行司法とAI司法の体制について,民主主義的なものであるかどうかを,ダールの指標に従って評価していくことにしよう。
現行司法における包括性
現行の司法に携わるものには,裁判官と裁判員の二種がいる。裁判員については全国民からくじ引きで選出されることになっているから明らかに包括性を満たすといえる。一方裁判官選任の包括性は必ずしも高くない。裁判官になるためには資格が必要であるが,1960年代までのアメリカの一部の州では識字テストによって包括性が制限されていた。また,司法試験の合格には明らかに平均よりずっと高い能力が要求されているが,ある種の能力の高さを要求するということはそれだけ包括性が低いということもできるだろう。もちろん,司法試験の受験に身分や性別の制限はないから,制度上誰でも必要な研鑽を重ねればこの試験に合格することができるということもできる。しかしそのような考え方は人間の均一性への理想を無思慮に現実に当てはめているだけであろう。裁判全体の中で,裁判員が関われる事件の数は限られており,また裁判の中での役割も,法曹人口と国民全体の人口の比率を踏まえれば,小さなものになっている。それらを踏まえると,現行司法の包括性は,限定的に評価せざるを得ない。
例えば熟議デモクラシーについても,雄弁さや論理性は誰もが同様に兼ね備える唯一の価値ではないという批判が上がっている。
現行司法における異議申し立ての自由
現行司法の下で異議申し立ての自由が認められているのは明白である。たとえ判決や裁判官に対し批判的なことを述べたとしても,それを理由に罰せられることはない。
それでは現行司法の下で競争性は働いているだろうか。最高裁判所裁判官については,国民審査があるので働いていると言えるだろう。下級裁判所の裁判官については,いくつかの考え方がありうる。仮に国民から自身の判決に対し批判の声が上がったとしても,自身の立場に不利益はないから,競争性は満たされないと考えるのは一つの方法である。一方,下級裁判所の裁判官の人事は最高裁判所によってコントロールされており,不当な判決は人事評価に影響をもたらすだろうから,判決が不当であるとしたら,それを非難することは下級裁判所裁判官の選任に弱い競争性をもたらしているともいえる。また,これら二つの見方は裁判官を判断主体と見做すものであるが,裁判官を,法体系から判決を出す機関と考えることもできるだろう。米国では裁判官個人の価値観を判決に反映させることが重視され,裁判官を国民が選任するプロセスも活発であるのに対し,日本では「顔のない裁判官」とも評される通り,担当する裁判官が誰であっても,同じ法体系からは同じ判決が出されることが望まれている。そのことを踏まえれば,裁判官を機関と考えるのも,あながち酔狂なことではないだろう。裁判官個人の信条を判決に反映させるなら,そこでは個人の信条はある程度一定のものであることが望まれている。その逆を言えば,「顔のない裁判官」は,時代や背景に応じた変化が求められると言える。国民がある判決を不当だと評価し,その認識が広く共有されているのに,それを反映しなかったら,その裁判官の立場は自ずから保守的なものとなり,「顔のない裁判官」とは言えなくなってしまうからである。従って,どの価値を判決に反映させるかを機関としての裁判官が選択する際,国民が自由に異議申し立てをすれば,その価値の優先順位が上がるだろうから,やはり競争性を持っていると言える。
これらのことから,現代司法は閉鎖的抑圧体制と競争的寡頭体制の中間にあると言える。
異議申し立ての自由とは意見が競い合うことであり,競争性とは人が競い合うことである。3では異議申し立ての自由から競争性を導入したが,このように人としての裁判官を背景化して考えれば,競争性から異議申し立ての自由へと議論の実質を揺り戻すことができる。
AI司法における包括性
誰が書いた文献もAI学習のリソースになることを踏まえれば,確かに包括性はあると言えるだろう。実際にはより沢山の文章を書いたひとの意見が多く反映されるが,包括性の基準には平等性は含まれていないので差し支えない。興味深いのは,すでに亡くなった人の文献もまた学習対象になりうることである。また,生きているひとでも,ライフステージに応じて価値観を変えることは十分考えられるが,そのような場合,その人の現在の意見と過去の意見の両方が包括されることになる。このように,AI司法における包括性は,現在のみならず,今までの全ての時代を対象としたものなのである。
AI司法における異議申し立ての自由
続いて異議申し立ての自由について考える。AIの判断に対して異議を申し立てることは当然自由である。しかし,これがどれほど実体的な意味をもつかは,改めて考えねばならない。AIの判断はあくまで入力に対し出力があるという関数に過ぎないから,AI司法では,異議申し立ての自由が意味をもっているとは言い難い。競争性があるとはつまり,国民の異議申し立てを契機として判断主体のAIが別のAIに変わることであるが,そのような手続きを別に導入しない限りはそのようなことは起こらないから,やはりAI司法では競争性はないことになる。
5では,「顔のない裁判官」が世論の影響を受けて判断を変えることの正統性に言及したが,AIもまた,極めて「顔のない裁判官」的なものである。このように考えれば,為政者たるAIの交替という帰結をもたらせなくても,異議申し立ての自由は意味をもつことになる。そう考えてみたらどうだろうか。
そもそもAIが判断を下す過程は目に見えないので,ここでの議論は少々困難なものとなる。仮にAIが単に多数意見を採用するとしよう。その場合,異議申し立ての自由は微妙に意味をもつこととなる。ただし,AIは入手可能な歴史上全ての文献を学習リソースとするため,現在の意見の比率が変わったとしても,効果は限定的なものとなる。
但し,このような仮定はAI司法の前提にあまりそぐわないものかもしれない。AI司法がどのような制度であるかは,それがいまだ実現したものではないために,さまざまな解釈の余地をもつ。しかし,取材を受けた学生によれば,AIは判例を参照するとのことである。判例一件と一個人の意見ひとつを同等の重みで評価するような無茶苦茶な制度は,おそらく想定されていないだろう。単純多数決を放棄して意見の間に重みをつけることが許されるのであれば,過去の意見より現代の意見を優先して評価すれば,このような問題は解決できる話だ。従って,AIの設計の如何によっては,異議申し立ての自由はやはりある程度評価できるかもしれない。
以上のことから,AI司法は少なくとも包括的抑圧体制であり,最も好意的に評価すればポリアーキーであるといえる。
現代の立法も議会の審議を通じて意見に論理性や説得力という観点から重みがつけられていると言える。
AI司法がポリアーキーであることの意味
しかしながら,そもそも民主主義であるとは,どのような意味をもつものなのであろうか。現代において民主主義は,同意論に基づき正統なものとされる。すなわち,人は自らの心と体を自身が自由にできるものとして所有しており,この2つについては誰からの直接的干渉も受けることがない。しかしながら,実際のところは万人の万人に対する闘争を避けるために,社会的なルールやそれを執行する機関があったほうが便利である。そこで人々は自らが自身の心と体に対して持っている権利の一部を,新たに設立した政府という機関に委ねる。人々が自発的に自身の権利を委譲することによって初めて,政府は正統に人々に何かを課したり制限したりすることができる。以上が近代民主主義の理解であり,ここでは市民は必ずしも政治的な主体ではなく,政府に正統性を与える淵源となっている。
とはいえ,この世に生まれた瞬間に政府の設立に同意した経験をもつ人はいないだろうし,同意しないことを選択できるわけでもない。同意論はそもそも17世紀のイギリスにおいて,王権神授説を唱える王党派に対して議会派が自らの理論的支柱として提唱した概念であるから,例えば『統治二論』においては,同意の実際を巡ってはあまり説明が尽くされてはいない。
同意とは実際にはどのような行為を指すものであるのかは,同意論として一つの論争的な分野を形成しているが,今回の記事はそれを対象とするものではないので,細かくは立ち入らない。しかしながら,ポリアーキーの分析をするのであれば,包括性とはすなわち,政府の正統性の淵源が包括的に国民に求められるかという観点が重要であろう。すなわち,国民が政治参加をすれば,それが一種の同意であるとみなされるはずである。
AI司法における包括性とは,AIがすべてのひとが書いたすべての文章を勝手に学習するということであって,そこには当然政治とは全く関係のない文脈で書かれたものも含まれるだろうから,これを政治参加による同意とすることは一層無理がある。そもそも同意論は,歴史的な民主国家の成り立ちを説明したものではなく,あくまで正統性という抽象的なものを共時的に説明する理論である。だからこそ,普通に考えれば凡そ「同意」とは言えないような事柄が,同意であるかどうかが争われるのだ。もし仮に革命権を行使しないことを以て同意と考えるのであれば,AI司法にも正統性はあると言えるだろう。このように,AIという新しい観点もまた,結局は古典的な論争に帰着するのである。
そもそも私が細かくは知らない。
結論
万引き犯が刑の宣告を受ける,離婚した夫婦が慰謝料を巡って争う──政治という言葉を耳にしたとき,このような裁判の一部始終を思い浮かべる人はおそらく少ないであろう。しかしながら,三権を分立させる考えは必ずしも古今東西普遍的なものであったわけではなく,司法はやはり政治の一分野であって,民主主義という価値の追求はやはり欠かせないものである(3)。『ポリアーキー』の基準をもとに評価したとき,確かにAI司法は現行司法よりもポリアーキーに近いものといえ,記事が取り上げた学生の主張は支持される(4~7)。『ポリアーキー』の基準は,AIのない時代を前提に作られたものであり,AI司法の民主主義を測定する上でも有効かには議論の余地があるが,民主主義という価値の原点まで戻って考えると,実は,この論争は同意論という古典的な価値判断に帰着するのである(8)。ただし,AIがよりよい政治体制の追求に向けて一石を投じたのは確かである。更に,従来のタームに基づき分析を試みれば,結果として生まれる論争も従来的なものとなることはある種必然とも言えようが,そういった従来的な価値判断の中でAIが優越的な結果を生み出すことは,改めて注目に値する。五月祭の二日目にはシンポジウムが開かれるというので,その結果が報道されるのを注視したいところである。