les impressions et les expressions

無題

sans titre
originel, 29 août 2023

学部一、二年のころに書いていたような文章がもうめっきり書けなくなってしまった。理由はいろいろ考えられる。

こういうときは定義を明確にするといいらしい。学部一、二年のころに書いていたような文章というのはあいまいだ。よく考えると二タイプある。第一に、人間関係について記したもの。第二に、自分と世界の関係について記したもの。

人間関係について記したものをあまり書かなくなったのは、ちょっとした好転と言えるのかもしれない。そういえば学部一、二年のころは常に大学に居場所のなさを感じていて、人間関係とは空気のようなもので、無くてはじめて存在を知り、対象化できるものなのだろう。今はといえば、当時と大きく状況が変わったわけではないが、私の交友関係が絶えずある種の不安定性を有していた(くっついたり離れたりを繰り返しながら少しずつ時を重ねていく)中で、常に連絡を取るべき定冠詞つきの相手がいることは大きく違うといえるだろうし、大学でも、人よりはずっと遅いながら、自分を出せるところができたのが大きいだろう。作っている自分は──それが自分の創造物であるからして、自分の存在を反映したものには違いないのだが──決して自分自身ではないのであって、素のままの自分でいられるというだけで、ずっと違うものがある。ツイッターは──常に周囲からは楽しく華やかなものと見られているのだが──実は大半の時間を打ち返されることのないボール投げに費やしていて、大した居場所にはなっていなかったかもしれない。あのころは隣人の隣人と言葉を交わせる開放性が現実の人間関係に似ていると思っていたが、現実の人間関係には建物や部屋の物理的な壁があって、それがないツイッターは場所にはなりにくいのだろうかと考えたりもしている。

自分と世界との関係についてあまり書かなくなった理由はもう少し考えづらい。そもそも私は人間以外のものにも主体性を認めているのであまり変わらないといえば変わらないのだが。学部二年のころはともかく空きコマが多くて、それは世界の中に自分を位置づけるためには非常に良い時間であったことは間違いないだろう。三年の春学期はちっとも空きがなく、その分午前休が多かったので、昼食代が浮いたのはよかったが、なにか精神的な豊かさを失った気がする。街を歩いたり、図書館を回ったり、公園に佇んだり、カフェに入ったりする時間は重要だった。それに引き換え最近はそもそも世界に向き合う時間がなくなったためにあまりそうした考えをすることもできなくなっていたのかもしれない。(もっと俗な理由もあるにはある。昨年の春から秋ごろにかけて私は自分という人間を資源にして競争をしており、その中で自分というものを意識し、伸ばす必要があったのだ)。

つまるところ、作りたいもの、書きたいものがないと言ってしまえばそれまでのことだ。より世俗的な事柄に向き合っているために、その反射として発露する自我もまた世俗的な色彩を帯び、表現するに足らないということはあるだろう。しかし、創作物に触れる量が決して減ったわけではないと思う。むしろ最近は、現実と切り離された時間を意識的に作ろうとして、創作に溺れているような気がする。ただ、現実と切り離されるためには、創作に対して自身の主体性が発揮されてはならず、受動的にならねばならないのだ。だから批評も二次創作もできない。つまるところとして、語りへの意欲の貧困に陥っているのだろう。

なんだかんだいって少しは学部一、二年のころに似た文章になっているだろうか。別に過去の文章に拘泥する理由はないのだが。仮に似た文章が書けなくなったとしても、かつての私は現在の私の構成要素として、他の要素とは互いに素であって、なくなったとは思えない。ただ、いまはツイッターから少し離れる約束をしていて、その結果として少し余裕が生まれたのだとすれば、あながち悪いことではなかったのかもしれない。語りは世界との対話であり、世界は自我の反射だから、一人でなければできないのだ。最近はひな形に沿った構成の文や字数を気にして切り詰める文ばかり書いているので、推敲もせずにつらつらと書き連ねるのはいい気分転換になった。このあたりでいったん筆を擱くこととしようか。

RETOURNER