les impressions et les expressions

解釈に対する優位

la supériorité des expressions artistiques aux interprétations
originel, 02 février 2024
mis à jour, 19 mai 2024

現代短歌のニューウェーブ

「なぜ短歌でなければいけないか」。これは、『現代短歌のニューウェーブ』において交わされた議論である。あることを表現するのに、一方の人はそれが短歌という形式を取る必然性があると主張し、他方の人は、実際のところ短歌であれなんであれかまわないという風なことを述べていた。短歌という形式に必然性を認める歌人たちは、万葉の時代から本歌取りを通じて継承されてきたイメージ、解釈の伝統の上でこそ短歌は成り立つのだという。瀬戸夏子などは、『はつなつみずうみ分光器』をはじめとして現代短歌の系譜を書きあらわしてまとめているし、不定形の歌もかなり多かったりして、形式よりも内容で短歌を見ているほうだろう。一方、短歌の中に大きな変革をもたらした穂村弘は、短歌という形式にはそれほどこだわっていないようであったし、実際彼は『短歌という爆弾』といった入門書を書いたり、エッセイを書いたりして、彼自身の世界観に註釈を施している。だからこそといえるかもしれないが、穂村の歌はけっこう定型を守っているものが多い。

定型か、内容か。このどちらが短歌へのこだわりをより強く示す要素であるかは、正直なところよくわからない。少し考える分には、内容的に短歌の伝統を踏まえている作者こそが短歌なのではないかという気もしなくはない。一方、逆説的なことに、いままでの短歌からの逸脱した表現をしている歌人ほど、実際には短歌という形式にこだわっているともいえる。従来の表現領域を逸脱すればするほど、短歌にする必然性が薄まることで、短歌を選び取った作者の主体的な意思が強くなるのである。

ふぉろわーのついーと

りちゃさんが藝大の卒展に行っていらして、そこで面白かった作品を上げていらした。積まれることを拒否する積み木をはじめとして、反権威主義的な作品が多かったそうだ。それを見て自分も行ってみたくなったが(実は大学のお気に入りの先輩も行ったそうなのだ)、同時に考えたことがある。それらの作品がみな反権威主義であったとすると、反権威主義という言葉以上に、作者が創作したのは何だったのかという問題だ。

短歌もまた同じで、ある歌に対して、例えば作者自身が解説を施してしまったとしよう。あるいはほかのだれかでもよい。短歌の投稿を募る新聞や雑誌のコラムでは、歌の解釈は短い文章によって与えられている。その文章のほうが本体であれば、短歌はいらないのではないか。

玉手箱の文章

玉手箱というのは、就活をやっているとよく遭遇するウェブテストのことで、国語と算数とまれに英語と北別府まり子(行動性向アセスメント)から構成される。国語の文章はちょっとした評論のようなものが多くて、なかには単なる放言としか思えないものもあるが、一方でなかなか面白いと思うものもある。その中に、映画は面白くなければならないということを主張している論があった。スクリーンショットを取ってはいけないし出典も書いてないので曖昧なのだが、どうにも人は映画を面白いと感じるとき、その中の登場人物の考えや行動を共感し追体験しながら追っていて、この共感性の能力に面白さを見出すことこそが人間の社会性の鍵なのだという。したがって映画の面白さは大変重要であるというのが結論であるようだった。

これは藝展や短歌にも当てはまる話なのだろう。言語的に表現するということは、一つの対象化であって、それはすなわち異化である。一言で表現すると、理解するのはたやすいが、自分の一部とするためには却って遠回りになってしまうのだ。だからこそ小説や映画は長いストーリーを作り、追体験を通じてメッセージを伝えているのだ。藝展の作品や短歌も同じで、それらは解釈に開かれている。解釈というのは非常に主体的な行為であり、解釈を通じて鑑賞者は作者の創作を追体験する。それゆえに、言語的表現ではならず、芸術的表現でなければならない理由がある。

解釈にはコードがある。さもなければ作者の創作を追体験することはできず、単なる自身の妄想になってしまうからだ。そしてそのコードは、それぞれの表現分野の文脈の中に存在しており、それゆえに「~派」といった分類は、単なる形式的な問題でなく、内容面においても一つの群れを形成している。

穂村弘のエッセイが、穂村弘の短歌に対して解説を施すものだとすれば、かりにそれがエッセイという形式を取っていたとしても、やはりそれは短歌のコードを示すものだといえる。すると穂村の創作もまた、表現という段階においては短歌という形式に拘束されないかもしれないが、一方で鑑賞される段階では短歌という必然性を持つといえるかもしれない。

よくわからないこと

私はあまり長い時間をかけてひとつの表現に注力した経験がないので、実際のところ芸術家のモチベーションはそれほどまでにわかっているわけではない。上に書いたことによれば、彼らは面白さ、あるいはコードに対する美しい順応などをモチベーションにして、言葉では一瞬にして表現できてしまうことのオルタナティブな表現に取り組んでいるということになるが、ほんとうにそうでろうか。

それから短歌という形式の必然性についても完全に解決したわけではない。短歌のなかにはしばしば、聖書をはじめとして西洋由来の概念が輸入されているが、短歌が本来もつ解釈の伝統は、そうした西洋の象徴よりも、そうした歌を解釈するにおいてより本質的なものであると言い切れるだろうか。

この文章は大半は玉手箱の文章を読んでそれを映画以外の世界、とりわけエンタメ性とは少し異なる表現領域に拡張したものなので、言語による解釈に対し表現がいかに優越し特異性をもつかについては考えることができたが、芸術表現同士の差異については、正直なところわかっていない部分のほうがやはりまだ大きい。

5月19日追記:『はじめての短歌』

穂村弘の『はじめての短歌』を詠んだら同じようなことが書いてあった。ワンダーのあとの共感が大事らしい。

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