les impressions et les expressions

ゆふばり

Yūbari
revisé, 28 mars 2024
écrit, jours inconnu 2020

(この文章は令和元年=私が高校一年のころ鉄道研究部の部誌に寄稿した文章を一般に公開できるように再編集したものです)

1

級友たちと四人で北海道に葬式鉄に行った話を手短に書こう。

体育の時間、他チームのハンドボールの試合をなんとなく眺めていたら、気づいたら北海道に行くことになっていた。弱った。北海道というのは結構高いのだ。しかも先月新潟へ行ったばかり。金がない。しかしながら、夕張支線は今春には廃止されてしまうのだ。

学年末試験が終わったのは三月の十一日のことで、予定をいろいろ突き合せた結果、この日の午後に出発することになった。組主任が時間をかけて答案を返すものだから、こちとらいらいらして仕方がない。答案返却日でもないのに時間をとるとはこれ如何に。なんとか解放されて東京駅へ向かう。昔は北の玄関口と云えば上野駅であったから、隔世の感あり。

そのまま“はやふさ”に乗り込む。飛行機にしなかったのは、冬の千歳というのは往々にして遅れるもので、遅れられたら困るからである。友人の提案であったが、ずいぶん旅慣れているものだと感心してしまった。それにしても、少し前なら最終の“はやぶさ”で青森へ行き、そこから“はまなす”にでも乗ればよかったものを、下手に新幹線が道南まで伸びてしまったがためにはなはだ弱る。一泊増えてしまうのだ。

乗った“はやぶさ”は十四時二十分発で、動き始めて二十六分で東北の地震の時間になるから、きっと停まるだろうと友人が云っていたので、むべなるかな、と思っていたら、停まらなくて意外だった。

友人というのは、その旅慣れた一人と、それから何かの縁でついてきてくれることになった二人である。特段鉄道に興味があるわけではないようだったが、面白いと思って来てくれたなら嬉しいものだ。それだけに地理に弱く、鉄研部員としてはなかなか新鮮だ。
「まだ仙台にも着いてないんだな」
とぼやいていると、仙台がどのあたりかあまり分かっていないようだった。

満席に近かった指定席も、新青森でどっと人が降りると、一両に自分たちのほかに二人連れが一組しかいなくなった。本州の空気はトンネルを通って、対岸の松前へと運ばれていく。

2

渡島大野改め新函館北斗駅はどこもかしこもピカピカで、けれども決して人影はなくて、なんだか妙に夜が澄んでいるのような気がした。駅の外に出ても同じで、ただただガムーつないコンクリートは、北海道の春の小寒さを伝えていた。

なお、友人の一人は函館山の夜景を楽しみにしていたそうで、ここが函館市外であることを教えるのに五分もかかった。

翌朝。早朝の空気はやはり澄んでいて、駅はもっと寂しげだった。低いうなり声をあげながらそこに入ってきた“スーパー北斗”は、結構ひとで満たされていた。湿った原野に、ただ僕たちだけが、文明の響きをあげながら走っていく。

南千歳で降りて、学割券を買う。夕張まではキロ数が足りていなかったようで、買えなかったので、券売機で買ったら、「南千歳から1070円区間」とだけ書いてあって、つまらねえ、と思った。もう一枚の乗車券は、「夕張から新十津川」とかいう、ものすごく“らしい”券だった。

乗換時間が長くて暇だったので、そとに出てぶらぶらしていたら、空港に政府専用機が留まっていた。ジャンボジェットももうすっかり見なくなって、もう政府専用機くらいだ、と思った。その政府専用機も、引退式典のために彼の空港に留まっていたのだ、ということは後で知った。

夕張行の普通列車は何の変哲もないキハ40で、それがすこしうれしかった。地元の中年のご婦人がたくさん乗っていたので、どうして廃止に至るのだろうか、と思っていたら、丁度廃止予定の区間の手前の新夕張でみんな降りていき、車内には好事家ばかりが残った。

車窓は北海道らしい単調さで、左右は防雪林、その脇は雪で覆われた畑か原野だった。深名線とあんまり変わらない。

夕張で四時間も使ったのは失敗だった。雪で特に何もできず、徒に靴が濡れただけだった。ホテルの紅茶が三百円と格安で、その上新聞紙まで用意してもらって靴を乾かした。運動音痴四人で卓球をして、案の定卓球台など眼中の外にしてラリーを続けた。

そのあとまた石勝線で南千歳へ戻り、“快速エアポート”。それまでは石勝線を乗り逃すまいと緊張していたので、安心してみんな眠ってしまった。

宿では『五等分の花嫁』を布教されていた。

3

札幌から今度は札沼線。もう直通列車はなくて、石狩当別で必ず乗り換える。石狩当別を過ぎると、またしても乗っているのは鉄道好きだけだった。

“夕張―新十津川”の乗車券は、終点の石狩当別で回収されてしまった。無効印も断られた。無人駅なら仕方がない、と思ったら、有人駅であった。窓口には記念に入場券を買い求める人が群がっていたが、無効印は押してもらえないのであった。

駅は国鉄時代の路線図を張ってみたり、やたらとポスターやらなにやら飾ってあったりして、観光地的な俗な感じが嫌だった。廃線の終着駅というのは、もっと寥寥としていなければだめなものだ。

新十津川から滝川までのバスは、混んでいるのか空いているのか今ひとつわからない感じだ。一日五往復あるそうで、たぶんほかの時間はがらがらだろう。

滝川から“ライラック”。ここは“えきねっと”の早割が使えなかった唯一の区間で、他はみな二十五パーセント引きで買ったのだ。滝川駅で新千歳空港までの乗車券を買う。みんなやけにたくさん券を持っていると思ったら、白石から札幌の往復券。滝川から新十津川では微妙に札幌を通らないので、札幌では途中下車できないのだ。気づかなかった。失敗。

札幌では昔の道庁へ行って、樺太関係の展示を見た。樺太の地名はあらかた見たことがあるもので、これだから外地専門の鉄道好きは、と自分自身に対して思った。

4

帰りの“快速エアポート”は混んでいた。みんな疲れて立ち寝していた。飛行機は三時間遅れで飛び、行きに新幹線を選んでいてよかった、と友人の選択を心中で秘かに称えたのだった。

(本篇中の石勝線夕張支線は令和元年四月一日に、札沼線末端区間は令和二年五月七日に廃止されました。札沼線末端区間は令和二年四月十七日の緊急事態宣言発令以降列車が運行されず、私たちが訪れた夕張支線とは全く異なる、ひっそりとした最後の日を迎えたことでしょう。ゆうばりホテルシューパロは令和二年八月十五日を最後に休業を続けています。思い返すに暖かくて素敵なホテルで、石炭博物館が冬期休業であった残念さを吹き飛ばしてくれるほど、雪に埋もれた夕張で過ごした時間は楽しかったために、悲しいです。)

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