Instagramには花の写真を投稿している
最近ひとの影響でストーリーズにみゅぜの写真を載せるようになった。もともとインターンの飲み会後の後朝の文(帰ったあとに一緒にいたひとに送る短いメッセージ)などに使ったりしていたので行動報告という点ではいいかと思ったのである。ツイッターに投稿するにしては適切な言葉を見つけられる自信はあまりないしね。
なんとなくふつうの投稿(feedっていうんでしたっけ)にする気は起きなくて、それは自分が行ったみゅぜの展示の写真がずらずらと並ぶのが怖いからかもしれない。
『早稲田短歌』の49号の巻頭インタビューで連作の話をしていた。連作は短歌にタイトルをつけてメディアに載せるために生まれたっていう話とか、もとからみんな連作の中から一首だけ抜き出して楽しむことはよくやっていて、SNSで短歌が拡散される時代にはそれがもっと進んでいって、連作なんて意味がなくなるんじゃないかとか、そういうことを言っているひとたちがいた。
自分が行ったみゅぜの展示の写真がずらずらと並ぶのが怖い理由をつきつめていくとむつかしい。みゅぜはキュレーターが解釈して構成したもので、そこから気に入った作品だけを選び抜いて自分のお気に入りリストをつくるのは、歌集から好きな歌を選んで引いてくることに似ている。実は写真を撮った時点で短歌を引いたのと同じことで、ほんとうに怖いのはそれがひとに見られることかもしれない。お気に入りの短歌リストはだれにも見せない。
パッチワークで自分を表現するのはそんなに怖いことなんだろか。言葉で自分を言い表すのだって、言葉はだれか昔の人から受け継いだ借り物なのだからパッチワークに違いないし、人間の学習ってそういうものじゃないかっていうことはAIが広まってから喧々諤々に騒がれている。まあ全部はグラデーションだって言ってしまえばどんな問題もたちどころに解決されたことになってしまうのだけれど。じっさい中庸はだいじだよ。釈尊も朱熹もそう言っていてえらい。
でもひとのパッチワークがたまに怖くなってしまうことがある。ユニバの写真、ラーメンの写真、バンジージャンプの写真、豪華なディナーの写真。初〇〇。
いろんなことに挑戦するのは素敵なことだ。ぼくもたぶんしたほうがいい。最近は音楽とか映画みたいにt軸のある表現を楽しめるようになりたい。
なにが怖いって、そんなの画一的な近代が自我を後退させることに決まっていて、挑戦してどうだったのか、感想はなんなのか、そのひとの心の動きがしりたくて、そのひとの魂の影をadmirerしていたくて、感想ってたとえばほら、嬉しいとか、楽しいとか、あれ……、2C1=2。
お気に入りの短歌リストはつくるのにひとに見せないってことは、再構成まではよくて(人間の脳みその自然的なありかた?)、それをひとに提示するのがだめなのかな。評がついているといい気がする。やっぱり感想がだいじなのかなあ。評ってだいたい連作の中の一首を抜き出してやるけどね。いつか、共感した他人の考えをリツイートしてばかりだと自分の考えとの小さな隙間がいつのまにか殺されてしまうっていうツイートを見た。あんまり共感しなかったけど、そうなのかもしれない。
なんで考えてるのかわからなくなってきた。みゅぜの展示ってキュレーターの解釈で、ぜんぜん作者じゃない。作者死んでたりするし。再構成の再構成をするとがびがびになっちゃうのかな。わせたんno. 49で連作の情報は引用のたびに切り落とされていくって言われていたように。そうかもしれない。いつか見たついーとが、みゅぜに行ってから外を歩くと自然はすべてがあらかじめ言い尽くしているって言っていて、そうだと思う。だから花の写真は一次キュレーション。ひとの家の植え込みは、プライバシーだからってのもあるけど、二次キュレーションだからあんまりやってない。街路樹は考えたひとがいるけど顔がないからOK。世の中って背景にあふれていて、コピーが繰り返されると見えなくなってしまう。コピーするときに公のコピーと私のコピーがあって、私度が高いとべつの背景が増えて、少ないとあんまり増えないでがびがびになるかわりにコピーでいられる。それからインスタは……たぶん友だちの投稿は友だちの私さが想像できるからなにを投稿していても良くて、よく知らないひとのは広告と一緒。
結局あたりさわりのない結論に至ってしまったね。釈尊は涅槃で、朱熹はそのへんにちょっとだけ残ってる気の一部としてさぞやcontentなことだろう。