円環への関与(「刺繍少年フォーエバー:永遠なんてあるのでしょうか」を見て)
青山悟の展示を見に行ってきました。とても良いœuvresがたくさん見られたので嬉しかったのですが、なんとなく何が良かったのかぼんやりしていて、このままだとそのうちに忘れてしまいそうで怖いので、筆の力を借りて思い出しながら書いてみることにします。
行ってきたのは「刺繍少年フォーエバー:永遠なんてあるのでしょうか」という展示で、青山悟ゆかりの目黒区美術館が開催しています。大きな箱ではありませんがひとつひとつじっくり味わっているとけっこう時間を吸ってくれる展示でした。青山悟は刺繍で作品を作るartisteで、それから社会問題を巡る民衆の声に対してけっこう意識的、というか、それが関心の中心なのかなと思いました。
「青山悟 刺繍少年フォーエバー:永遠なんてあるのでしょうか」があまりにも短歌っぽくて惹かれて行ったところは正直あります。定型遵守度もかなり高い。多岐亡羊としてしまってもしかたがないので、まづ思っていたところの永遠なんてあるのでしょうかを述べて、それから青山がどんな永遠なんてあるのでしょうかを提示していたのか考えてみようと思います。
直線的時間観に根差せば、私たちが永遠を意識するとき、それは永遠でないことを意識するときでしょう。いつかは終わってしまう今の生活、それに根差した関係性、そういったものの有限性から目を背けて、ln(x)が負の値を取らないように、いまある時間だけを定義域にして感じるもの、それが永遠というものでしょう。一方、円環的時間観に根差せば、永遠は自明のことであるようにも思えます。ただ、(私が近代に染まりすぎているだけかもしれませんが)円環的時間なんてものがほんとうに存在することがあるのかはよくわかりません。今年は去年とは違う春が来るし、今年の甲辰と、六十年前の甲辰と、六十年後の甲辰は、ひとの一生への感じ方を思えばぜんぜん別物でしょう。あっでも、たとえば春を示すのに円環的時間なら0 < θ < 1/2πとかにすればいいところを、直線的時間観だとうまく表せませんね。そういう意味では円環的時間観を持っているのかもしれない。でもなんだかそれって別にありがたくないなあという気もします。やっぱり有限性があるからこそ一面的な無限が輝くのではないでしょうか。などと、いま強いて書き記せばこういうふうになるだろうようなことをうすぼんやりと思い浮かべながら展示に向かったのでした。(これから先の感想はあまりこの事前の考えには応答していません。)
青山が刺繍にこだわっている理由はそれが手仕事だからです。かつて工業用ミシンに仕事を奪われた女性たちを現代にreprésenterするように、コンピュータ制御のミシンの普及によって過去のものとなりつつある手動の工業用ミシンで青山は作品を作り続けます。それは時代の流れに抗うということでもあり、時代とは人が作るもので、かつ各人が時代にもつ影響力は決して等しくはないことから、それは同時に飲まれてしまった人のworkやactionに目を向けるということでもあります。時代の流れに抗う中で、青山はウイリアムズ・モリスへの共感を示し、それが単に時代錯誤的なものであるというのではなく、むしろ見過ごされているというだけの、普遍的な価値であると考えます(〈no. 66 芸術への感受性を持つ合理的な人は機械を使用しなくなるだろう〉)。
同時に、旧世代の製品が新世代の製品に置き換わって淘汰されていくさまは、よりメタ的な円環性を示してもいます。交替そのものが円環性の対象となるというのは少し形而上的な遊びが過ぎるようにも一見思われますが、合理性が人間性を疎外するという普遍的な危機(〈no. 35 SAVE HAND WORK, SAVE OLD MEDIA, SAVE HUMANITY〉)のあらわれであると思えば、その契機が円環的であったとしてもおかしなことではないでしょう。
〈no. 59, no. 60 N氏の吸い殻〉〈no. 62-64 Thrown Away Receipts〉〈no. 61 Ticket to ride (青山悟の乗車区間)〉はいかがでしょう。吸い殻やレシートといったものは、それ自体としては一度切りで消費され終わってしまうものです。一方で吸い殻やレシートは日々新たに生まれ、打ち捨てられていく運命にあります。それは、かつて工業用ミシンに抗った女性たちが決してその声で大波を止めることはできなかった歴史の先に、工業用ミシンが淘汰されていく様相と同様の構造を取っているとも言えるでしょう。
また、いささか飛躍にはなりますが、〈no. 30 ブルー・インパルス〉を始め、既に行われてしまった様々な声に改めて注目することは、将来いつか似たようなことがあったときに、声を上げられる機会がまた生じるよう守り高めていくために、そうした声の存在を認めていこうという円環への積極的関与にも思われます。
刺繍少年、という語は、エイジズムへの反発としての名乗りだそうです。青山はまだ五十代ですが、六十歳の誕生日を迎えたとき、またゼロ歳へと向かっていくのでしょうか。
永遠なんてあるのでしょうか、という反語的な問いは、永遠などない、という結論を想起させます。たしかに十九世紀英国の労働者たちの運動は失敗しました。しかし、青山はそこでニヒリズムに逃げることはしません。円環への積極的関与によって、青山は第二第三の運動を盛り上げようとしています。それに、権威もまた永遠ではないのです。青山が繰り返しやってくる東京の朝(no. 3)を描き、日常を描いた(〈no. 15 Everyday Clock〉)ことからも、円環の時間に対して託した希望は大きいと言えるでしょう。〈no. 36-39 Map of the World (Dedicated to Unknown Embroiderers〉で提起された繊維産業労働者の仕事がいつか終わってしまうということを受け入れながらも、それに主体的に関わり、再起を生み出していく、強かな暮らし方を、ウィズコロナでの青山は描いているようです。個人にとって直線的な時間が、社会にとって円環的な存在となるということは、永遠に逃げてしまいたくなる脆弱な個人を超えた社会性を教えることにより、ある種の人々に対する励ましとなるのではないでしょうか。