月
わらはのころ、月に交らひわたりきこえけり
など申しみれば、人に驚かるべきや。たをやかなる月かげは、またもの寂し。まろき月のひかりは、あるときはやはらかに見ゆるを、異ときは青白く、氣高くも覺ゆ。この町の夜は、月よりほかに光放ちたまふものなくて、さるゆゑにや、町人はみな月にかしこみ、またみな月の光を受けつつ、靜かに床のひと時過ぐすならひなれば、月に交らひきこゆなどとふは、初めは世にも思はれぬことなりき。
さもあてやかなる月なれば、わが觸ればひきこえむかたを、あるひは月の神 仰ぎたてまつるものどもは、おほけなしとぞ咎めむ。ある夜半、道步きたるに、脇の水路の波に、まろき月影の寫りて、ゆらゆらとゆらめきつつ、漸く形變ふるさま、笑ひたまふやうなり。さるよしにや、魔の差して、水と戲れみむとて、水路のへりを降り行きて、さてさて近くに生ひたるすすきうち拔いて、水面をつんつんとつつきみるに、水われに應へるやうに小さき波作りぬ。われは太き茅引き拔きて、水面をぐるんぐるんと回す。しかうして水路に手うち入れ、底なる大石退けて、大きなる渦つくりぬ。水路はただならずののしりて、水底と水面とをかき混ぜて、されば水面は、いまは月寫たらず。さてわれゐやゐやしく水路に首垂れ、つひにまかりぬ。夏の足音もまさに聞こえむとする、さるもまだほの寒き夜の家路に、水心地よく腕にまとはりつきゐたり。
朝、郵便屋の自轉車のベル鳴りて、あなありがたくもとて、門の郵便受け急ぎ見れば、文ひとつ入りたり。差出人は書きおこしたまはねど、あいなく月よりとぞ思はるる。かくて文交はしきこえ初む。
七たびばかり日昇りて、また沈みけるある夜半に、町はずれの岬の岩陰をとぶらひみる。岩陰は、濱に下りるより、鄰町のかたへと向かひてとばかり步む先にありて、みそかなるけはひなり。丘の上なる町よりは見えぬところにて、しばしばあやしきこと起こるとぞ。大竜 と話しきとふもあり、一角獸 海の向かひより驅けくるを見きとふもあり。しかして岩陰のちいさき濱に腰下ろして、くれふたがれる荒波の音、ほのかに身震ひつつ聞くに、ややありて、海の奧より、波にも消え入りなむほどのか細き一筋の光見えきて、月現はれたまふ。水の中より漸くかたちを見せたまひしを、眞中を過ぐるほどよりさきなくて、サラダボウルのやうなり。月來たまへり!御消息にはつくづく考へつつさしいらへたてまつれど、いづこに宛てておこすべきか知りかぬれば、しわびて机の中にしまひてやむ。さるも、あやしくも書きたることどもみな知りたまふやうにて、たばふる御消息、みなさはりなく言かよふ。ひとたびあふこともがなと書きおこしたまへば、肝もつぶれむほどなれど、ときのま考へて、町の眞中の 廣場 か、あるひは岩陰にて、と返したてまつる。御返り事はいまだあらざれど、あいなくそら賴みて岩陰に參りみれば。月影の照る岩肌、いまだ見ぬ色にて、覗き見るに、瑠璃石 なめり。とばかり見とれて、瑠璃石 は(Na,Ca)8(AlSiO4)6(SO4,S,Cl)2と申すかし、などまごまごと申すばかりなりき。しかして月影をたよりに、砂濱に上向きの大きなる矢印書かむとするに、月影つかのま弱まるほどこそありけれ、大波襲ひ來て、その矢印を掻き消しぬ。
また七たびばかり日が昇りて沈みぬ。その夜、月つひに現れたまはず。すがらに待ちゐたれど、いづくにも現れたまはずかし。漸く東の地平白みゆき、心ときめきして窓の外見やるに、空紫いろに染まりて、げにはそれ太陽なりき。ぐわんぐわんとしつつ、いかでかペンにインキ沁みさせて、月に文書きて、さてその文もて紙飛行機折りて、ありつたけの力盡くして空に飛ばす。紙飛行機つひに落ち來ず。
また二たび三たび日昇りて落ち、夕まぐれに郵便屋のベル鳴りぬ。月より御消息ありき。今度は町の西のはずれの濱邊にて相見むとぞ。西の濱もまた、海食崖の下なるささやかなるものなりき。そのふし月は夕べにならねば現れたまはず、夕燒けに溶けむほどの、黃なる細く弱き光發したり。されば、かくては消えたまはむと心惑はし、月にたのしき物語ここらしたてまつる。月いづくにも往ぬることあらば、この小さき町、心置くべき土產話だに、と覺ゆれば。されば月おぼろげに、光をかつは强めつかつは弱めつ。月うち笑ひたまふ。いと嬉しければ、うちつけに、友とならなむ、など申し聞こゆ。友となる、とふことは何事にか、つぶさには知らざりき。この町はいと小さければ、われに似たるひとをさをさあらねば、言通ぜぬをりさへあるを。このアイス冷たしかし、と言へば、アルミニウムは酸化しにくければくさぐさの用にもちゐられたり、とふいらへ返りおこすさへあり。かかる物語もいとほしくはあらねど。かくて、おぼろげにて、さることを申してけり。月もまたあれかにもあらず、きよとんとしたまふ。などてかさること申しきとてとかく思ふに、友になる、とふはげにはいかなることかは知らねども、友なり、とふ實 ぞだいじなりとぞ思はる。さらば、月離 りたまふとも、かれを友なりと口こはしくも言はれむ、いつしか月、紫いろに光りつ、綠いろに光りつものすることあれども、月、さるべきことならむとて、をりをり御消息たまふかぎりは、そのわけを知るべからむ、漸く色變はりゆくさまえ知れば、さることも受け入れやすくも思はれむ。さりとて案じさだめて、月と友とするなり。