les impressions et les expressions

短歌とSNS:網の目からの遊離

réseaux sociaux et tanka : la libération du réseau relationel
originel, 27 juin 2024

短歌とSNSの相性の良さはよく言われる。その中でも、同行者という言葉が最近聞いて少し気になったので考えてみた。

SNS上で「同行者」という言葉を使う理由はさまざまあるだろう。たとえば、恋人の存在をぼかしたいとき。恋人であるが、恋愛至上主義に与したくないとき。恋人なのかはっきりしないとき。友人であるが、どの友人であるかをはっきり示したくないとき。

中でもとてもSNSらしいのは最後の例だ。SNSは非常に個人を主体とするコミュニケーション手段である。すべての発話はあらゆる人を対象として発信されるため、関係性の中に生ずる文脈に縛られず、個人として行われる。実際の交友関係は、所属や従前までの予定の一致、他の友人との相互作用といった様々な社会的制約の中で、形式や充実度の点でさまざまな形態をとるが、SNSでは建前上そういった一切のものが捨象されて、すべてのフォロワーがフラットな関係として立ち現れる。そうした現実とSNSの特性の違いを隠蔽する手段として用いられるのが「同行者」という表現である。個人がすべてを引き受けるSNSの性質の中で、「同行者」は、交友関係の網の目の構造性から切り離された存在である。

次に、短歌について考えてみる。短歌は二つの理由から、特定の人に向けた一対一の感情のやり取りをするのに向いているとされる。一つは構造的な理由。短歌は31音の中ですべてを完結させなければならないために、群像劇を描くような余裕はなく、完全に一人称の中で完結する事柄、世界との関わり、そして二人称への感情といったことに終始する。もう一つは歴史的な理由。五七五七七の形式は万葉の時代に始まって、特に相聞の分野において大きく発展してきた。和歌はもともと歌であって、これは声に出して歌いかけるものであり、それが書かれるようになった後も、王朝の時代を通じ、誰かに送るものでありつづけた。相聞は当初互いに言葉をかけあうという意味でしかなかったが、次第に恋愛の文脈を帯びて用いられるようになった。それゆえ、短歌を詠むにあたって意識的に、無意識に参照される過去の歌というプールの中には、誰かに言葉をかけるための文脈が豊富に存在する。現代でも、「君」「あなた」といった言葉は、相聞の時代と同様に、恋愛の暗示を帯びながら、必ずしもそれに限定されない二人の間の関係性を示すものとして、さまざまな過去の文脈に結びつけられながら、一対一の関係を志向している。

現代の短歌はもはや、誰かに実際に言葉をかけるというよりは、むしろかけられない思いを昇華させるための手段として使われることも多いだろう。短歌に登場する「あなた」はあくまでも「私」の想像の中の「あなた」であって、現実の「あなた」では決してない。「あなた」は他者でもあり、「私」自身でもあるものとして、両義性を有しながら「私」の中に強く留まっている。一方SNSにおいても、「同行者」は聞き手である第三者と対置された、発信主体と一心同体の存在として仮定される。「同行者」という第三者を強く意識した曖昧化は、「同行者」が読み手である可能性を排除する。「同行者」に発言権はなく、「私」の行動の客体、あるいは「私」に影響を与えた主体の一部として、「同行者」は「私」の一部を構成する。短歌がしばしば秘めざるを得ぬ思いの吐き出し先として昇華されるように、SNSに書かれる「同行者」の姿も、特に関係性がデリケートな相手に対し手であれば、本人には知られないほうがよいことが殆どである。

少し話が絡まってしまった。現実のもつ網の目の交友関係の権力構造の中で、SNSや短歌はそれらを意図的に無視し、読み手をすべて第三者として他者化し排除することによって、一人称と二人称の一対一の関係を浮かび上がらせる。同時に、二人称は登場しない相手であり、一人称の語りの中にしか存在しないものとして、一人称と一心同体の関係にある。こうした近代的個人性こそが、SNSであり、現代短歌の特徴として、強い相互作用を生み出しているのだろう。

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