「しあはせ」の訳語
「しあはせ」のギリシャ語訳を調べやうと思ってhappyでWoodhouseのEnglish - Greek Dictionaryを引いたところ、出てきた候補のくはしい説明が「成功してゐる」「幸運だ」「祝福されてゐる」などになってゐて、「関係性のなかで満たされてゐる」がなかったので、どれも少し違ふな、といふ感じがした。そこで少しアジア的価値観の授業を思ひ出した。
アジア的価値観といふのは、アジアと欧米では幸福感が異なるといふ言説である。欧米では自由や成功といった価値観が尊ばれ、それらを達成してゐる状態が幸福であると定義されがちであるのに対し、アジアでは周囲とのわだかまりがなく、うまくいってゐるといふ状態が幸せとされることが多いといふ。学術的な問題意識としては、たとへば実証的な分野では、幸福度調査の際に欧米視点で幸福を図る設問を用意してしまふとアジアの幸福度が不当に低く評価されるといふ可能性が考へられる。
しかしながら、この言説を無批判に受け容れることもまた問題がある。アジア的価値観はそもそも、リー・クアンユーによって開発独裁を正当化するために持ち出された言葉で、中国共産党がこれを好んで援用するといふ文脈がある。また、常識的に考へても、「シンデレラは王子さまと結婚してしあはせな日々を過ごしました」といふ有名なグリム童話の結末が指してゐる「しあはせ」が、関係性のなかの幸福を指さないわけはないだらうし、欧米人があたたかな家庭に感じるしあはせが、決して世の中の結婚規範といふレールに正しく乗ることができた達成感やそれを周囲に自慢したい気持ちからのみ来てゐるとは到底信ぜられない。
とはいへ、かうした家庭的なるものが西洋近代では女性的なものとみなされ周辺化されてきた歴史もまた考へなければならない。
汝が命名なべて過誤にてアダム、われらは今も喩󠄂もて語らふ/川野芽生
といふ歌が想起されるが、欧米の男性が関係性的な幸福に目を向けず、また自らの言語を男性中心的なものにして、彼らが女性的と見なした幸福に相当する言葉を作らなかったとも考へられる。
一方、自らの実感にもっともぴったり適ふギリシャ語の単語を探してゐるといふこの文脈において、さうした話を持ち出すのは、いささか言葉を哲学的に解釈しすぎてゐる可能性もある。ギリシャ語のみに限っていへば、サッポーなどの一部の例外を除いては男性の言語が支配的なのであるし、フェミニズムがたびたび問題にしてきた複数の文法性の問題──複数人の集団のなかにひとりでも男性が混じってゐればその集団は男性複数の代名詞で受けられ、形容詞は男性複数に一致する──といふ問題もたしかに、古代のギリシャにはすでにあった印欧語の言語的特徴である。しかしながら、たとへば現代のhappyといふ語の意味にまで話を拡大してしまふと、近代語を使って人生を送り、次世代の子供を含む周囲に影響を与へ、自らの言語を継承してきた女性の語りを過小評価してしまってゐるとの誹りも免れない。
そもそもここでいふ男性的といふのが近代的と同義であって、ギリシャ・ローマから教皇・ビザンツ皇帝の時代を経て近代にいたるまでの西洋の価値観の多様な内発的変化を無視してゐるとも云へる。ストア派やエピクロス派、そしてプラトーンの政治哲学がいかに現代の直感と離れてゐるかについては議論を俟たない。
結局、「しあはせ」といふ語はしばしばフランス語ではcontentに訳されるのを思ひ出して、satisfiedで引き直してみたところ、ἡδύς「甘美な」がヒットした。なんとなくであるが、これが一番自分のもともと考へてゐたことに近いやうに思はれる。実のところ、happyを「幸福」の語に対応づけた先人たちが、明治維新のころ、立身出世を夢みて学問にはげみ、近代的自我の確立につとめた、ある意味では模範的近代男性のやうなひとたちであったといふだけかもしれない(もっとも、グリム童話の最後はやはりhappyであらうから、彼らの訳が誤りだったといふことでは決してない。)