別荘地
Ⅰ
「新菜と結婚したいなって思ってるんだけど」
少し言葉を濁しながら話し始めた妻は、意を決したようにそう切り出した。新菜というのは妻の中学時代の友人で、卒業後はしばらく疎遠になっていたようだったが、正月に妻の実家に帰省した時に、ショッピングモールのフードコートで偶然再会して以来、妻は彼女とまた頻繁に連絡を取り合うようになっていた。最近の妻は事あるごとに新菜さんの話をしていたから、そのうちこんなことを言い出すのも、世間一般の常識に照らして言えば、あながちおかしなことではないと言うべきだろう、そんな考えが素早く脳裏を駆け巡った。
しかし同時に、私を逡巡させるもうひとつの感情があった。私は新菜さんのことをあまり快く思っていない。何か具体的に嫌なところがあるわけではないし、電車で百分はかかる妻の故郷で今もずっと暮らしている新菜のことをどこかよそよそしく思ってしまうのは、どちらかと言えば努めて取り除くべき偏見というべきものだろう。
そんなことを考えていたら、少し押し黙っている時間が長すぎたのだろう、妻は私に答えを促す。
「先月新菜を家に招待したでしょ、あの時楽しかったじゃん。だから私たちうまくやれると思うんだけどねえ。」
妻は、普段は落ち着いているけれど、こうやって明るく人を宥めることも得意で、そのおかげで大抵のことはやる気になってしまうのだけれど、一方でいつもそんな役回りに回ってばかりいる妻が、声の出る吐息の通り道とは関係のないところで、諦めとうんざりを混ぜて、それをそっくりそのまま大きな海水に混ぜ込んでしまったような落ち着きを見せていることも、三年も結婚をしていれば自然とわかってきてしまうのだった。
「そうだね、前向きに考えてみてもいいけど。だけど結婚って言えば大人と大人が精神的に支え合う制度のことでしょう。何か病気をしたときには面会権もあるし、それから会社だって勤務地の選定に際して特別の配慮をしなくちゃならないし。そういう人生の大事な局面にかかわるってことは、もう少し新菜さんのことを良く知らないと何とも言えないかな。今度彼女と三人で旅行にでも行くのはどうかな。」
私は結局、なるべく私の内部の懸念が伝わらないような、理性的にいちばんよいだろうと思われるような答えを返した。それは一方、どこか優等生みたいな答えで、妻はそういう答えのことを必ずしも快く思ってはいなかった。けれども、取り敢えず新菜さんとの結婚について、にべもなく断られたわけではないということで、この提案に乗ってくれるようだった。
「そうね、どこに行こうね。寝る前にLINEのグループで新菜にも話してみよっか。」
その一言でその場の会話はひとまず切り上げられた。
Ⅱ
翌日会社で真田さんに話しかけてみることにした。真田さんは部署の二つ上の先輩で、大学三年のとき、当時付き合っていた恋人と、それから真田さんの友人と、その恋人の四人で結婚をしたというひとだ。真田さんとは必ずしも話が合うというわけではなく、またものすごく合わないというわけでもなかったので、普段は仕事と、その延長線上にある付き合い程度の仲でしかなかったのだが、こういうことを話すにはうってつけの人だろう。
「真田さんのお宅って、付き合ってらっしゃる方とお友だちはもともとべつに知り合いじゃなかったんですよね、結婚されてみてどんな感じですか」
「うーん、どうって言われてもなあ」
「わりとすんなりうまくやれました?はじめのうちは我慢することも多かったりとかって」
「その点は恋人に聞いてみないとわかんないねえ。けど、恋人の妻とは一緒に住んでるわけだけど、旦那カップルとはべつに一緒に住んでるわけじゃないから、特に何かあるわけでもないかなあ」
真田さんは就活が終わったのを機に友人と結婚したらしく、そのころは恋人がいなかったのだが、社会人になってからアプリで出会った恋人とも後に結婚して、最後に友人もまた恋人と結婚した結果、いまの家族形態になったそうだ。初めに友人と結婚したきっかけは、友人が全国転勤のある会社に入社してしまったからだそうだ。ワークライフバランスを重視してなるべく転勤が起こらないように配慮をすることは、理念の上では大っぴらに否定する人はいないだろうけれど、業務の性質によってはどう考えてもそういう雇用形態がある程度は避けられない会社というのはいくらでもあって、真田さんと友人は自分たちがそのはずれくじを引くことを恐れて結婚をしたということらしい。もっともそういう理由で結婚を選ぶひとたちはめずらしくないし、そうやって成人同士のケア関係を維持することこそが結婚の本来の趣旨だから、それで真田さんがどうこうということはない。ただし、学生時代の結婚は離婚につながりやすいというのは確かで、自然と疎遠になれる友人関係と違い、やはり離婚届にサインをしなければならない婚姻関係の解消を積極的にしようということになれば、どことなく修復しがたい亀裂が顕在化してしまっているような側面も否めず、必要以上に完全な形で友人を失ってしまうことになりかねないというのが、友人との結婚のデメリットともされている。とはいってもドラマで毎年のように作られている設定を見てなんとなくそう思い込んでいるだけなので、それがどうこうということはないのだけれど。
真田さんの珍しいところは、関係ないところで知り合った四人が婚姻関係をずっと維持しつづけているということで、やっぱり真田さんの恋人は、真田さんの友人とも自動的に婚姻関係に入ることをどう思っているのだろうか、というのは疑問のままだ。
私と妻は保守的な家族のもと育ったので、一応恋人から夫婦になるに当たっては両家の顔合わせを済ませ、今でも時々妻の実家に一緒に帰省をするのだが、妻の両親がどんなに気持ちのいいひとでも、どうしても互いに気を遣うもので、なんとなく居心地が悪い。それでも一応私たちは自由意志でそういうことをしているということになっているので、気持ちの上ではまだ良いが、性的家族以外の婚姻が選べなかった時代には、さぞかし気苦労が多かったことだろうと思う。そして、もともと見知らぬ成人同士がケア関係に入るというのはそれにも似ていて、どうしても気づまりしてしまうのではないかという気がしてしまう。
真田さんはあまりそういうのを気にする性分ではなかったので、結局のところ大した収穫は得られなかった。きっと恋人の方も真田さんと恋仲になるくらいだからそういう気質なのだろう。もしかしたら新菜さんもそうなのかもしれないし、だからこそ新菜さんといるときの妻はそういう側面が多めに強調されるような気がして、実のところ少し苦手だ。なんだか余計に気持ちがわじわじしてしまって、火の付いた煙草が煙を出す動画を携帯で再生し、五分ほど見てからオフィスへと戻った。
Ⅲ
いつまでもうじうじしていても仕方がないので、新菜さんとの旅行の計画をすることにした。案外新菜さんのいい一面が見えて楽しいかもしれない。それに、こういうものは自分が幹事になってしまうに限る。そうすれば、多少妥協をしたり、気を遣ったりするところはあるにせよ、少なくとも自分が不承不承受け入れるような行程にはなり得ないから、ある程度の楽しさが担保されているとも言える。やっぱり新菜さんとの関係を前向きにとらえる上でも、それは必要なことだろう。
その別荘地は、本来は避暑地として人気のところだが、秋の連休を利用して行こうということになったので、街中と比べるとやはり少し肌寒い。もしかしたら早めの紅葉が見られるかもしれない、ということで、ひとまずそれを楽しみに旅行の支度をしようということになった。
私や妻は小さいころから何度も旅行もその別荘地を訪れたことがあるのだが、新菜さんは小さいころはあまり旅行に行くことはなかったそうで、初めて行ったのが、前回専門学生の頃に、クラスの友人とドライブに出かけたときのことだったらしい。だからそこには楽しい思い出がたくさん詰まっているらしく、新菜さんは少し大げさなくらいに絵文字をつけてはしゃいでいた。
私にとっては、実はそこには学生時代に交際していた恋人と行ったのが最後だった。その恋人とはそれからほどなくして破局してしまい、実際旅行中にも、なんとなく綻びのようなものを感じる瞬間が多かった。なんというか、合わなさに対してお互い諦めているような感じで、だから二人で一緒に回っていたのに、一人で見て回っているひとが二人近くにいるといった風情で、その町の観光施設には、どことなく寂しい気持ちが残ってしまっていた。それは今となっては大昔のことで、その時の気持ちはちっとも残ってなどいないのだけれど、それからそこのリゾート地からはなんとなく足が遠のいていたのだった。今回は、百パーセント楽しみな気持ちからだけではない、少し不純な動機を含んだ旅行だったので、むしろそうした嫌な印象を払拭するための好機だと思い直しながら行程を組んだ。
Ⅳ
行程が決まると、妻はずいぶんと嬉しそうで、料理当番の日には少し凝った料理を出してきていたし、仕事に行くときにも、いつもより二本早い電車に乗って行くようになった。家から妻の会社までは、二本早い電車に乗ると始発駅の関係で少し空いているらしく、妻は日頃その電車に乗ることを目指しては、つい朝ぐだぐだしてしまって乗り損ねる、というルーティンを送っていた。
妻のすごいところは、久しぶりに会っても、まるで最後に会ったのが昨日のことであるかのように話を始められるところで、つまるところ、単純に記憶力が人並外れていいというのもあるし、共通了解を探し出して、いま彼女がしていることをそのフレームの中に落とし込んで話すというナラティブを作るのがうまいということでもある。記憶力のほうはといえば、文字面を覚えるだけというのではなくて(むしろそれについては人並みだ、と本人は苦笑していたが)、嬉しかった気持ちを鮮明に蘇らせて話すのがうまいということだった。妻と新菜さんは委員会が一緒だったようで、クラスや部活といった中学生活の大部分を過ごす時間は特に共有していなかったし、だからこそ修学旅行の班決めのときも、べつのグループで班を組んでしまうような、そんな仲だったのだけれど、週に一回一緒に仕事をしていたことが本当に楽しくて、そこで闊達に意見を出し合ったときのことは、なんとなくで一緒にいたクラスのグループの子や部活の子よりも鮮明に思い出せるのだという。新菜さんは絵を特技としていたようで、委員会がつくるポスターの類のものは、みんな妻の発想を新菜さんが絵にして実現されていたらしかった。そういうことを、繰り返し繰り返し聞かせてくるものだから、しまいには私も中学のころその場にいたことがあるんじゃないかというような気さえしてくるほどだった。一方でまた、それほどまでに闊達に意見を出す妻というのがなんだか想像できないような気もしていた。新菜さんとの結婚を切り出すときの妻は相当な量の言い淀みをしていたし、そうでなくとも、いつ会社の飲み会があるとか、そういうことでさえ少し言いにくそうにする人なんだもの。でも、だからこそ妻は、新菜さんと過ごした時間をよほど大切に思っているのだろう、卒業式を前に委員会のポスターを一枚もらってきて、くしゃくしゃになった端っこをテープで補修したものを、彼女はいまでも綺麗に折りたたんで、彼女の箪笥の一番下の段にそっとしまい込んでいた。
Ⅴ
秋の別荘地は思ったより肌寒く、何か羽織るものを持ってこなかったことを後悔した。至る所に柊が植えられていて、濃緑のツンツンとした葉は、上品なようでもあり、何かを拒絶しているようでもあった。連休ということもあり、道路が混んでいるのではないかとずっと懸念していたものの、蓋を開けて見れば、特に高速を降りてからは、赤信号を待つ間に前に車が停まらないくらいには空いていた。
運転に少し集中していたところで、また信号待ちがあり、自然と車内に意識が移る。新菜さんと妻は後部座席ではしゃいでいて、なんだか知らない妻を見ているようだった。新菜さんはインスタで別荘地のおしゃれなお店を検索しては妻に見せていた。新菜さんはどうやら絶対に行きたいという店を見つけたらしく、それをしきりに妻に勧めていた。その会話を聞きながら、しかし、そのお店に行くと、午後以降の話し合って決めた行き先がかなりぐちゃぐちゃになってしまうので、どうしたものかなあと思案していると、信号が青になって、また車内の会話には上の空になった。新菜さんの、人に何かを強く勧めているときの話し方はなんとなく苦手だなあ、とふと思った。
妻も新菜さんのアイデアに賛成したとのことだったので、一旦池のほとりの駐車場に車を停めて、計画を練り直すことになった。妻があんまり嬉しそうにはしゃいでいるのを見ると、言われてみればもともとの予定には特段こだわりはなかったような気がしてきて、なんだか自分が小さい人間のように思えてきた。
行くことになった店は、毎朝熊の肉をしとめてきて提供している店で、私はその店の名を知っていた。というのも、昔別れた恋人とその別荘地に来たときに、その店はオープンしたばかりで、実のところ私は、少し興味があったのだけれど、その少し人を選ぶ料理に当時の恋人が賛成するかわからなくて、結局のところ言い出さないままに、無難なイタリアンを選んだのだった。私は付き合っている人に対してさえもしばしばこうであったし、なんとなく妻もそういう人であったから、それで私たちは結婚したのであった。付き合っているときの年齢が、なんとなく世の中が結婚を選ぶような年齢であったから、という理由を抜きにするならば。そんなわけで、そういう店を難なく提案してしまう新菜さんのことは、少し羨ましいようにも疎ましいようにも思われる、と言ったら嘘になることだっただろう。しかし、今回はともかく新菜さんとの相性を知る旅行であるのだから、気になる店が似ているというのは目出度いことではないか、と思い直して、車のナビにその店の名を入力した。
Ⅵ
久々に訪れる別荘地はやはりわくわくさせるもので、それは少なからず、新菜さんに対する私の印象がよいものであることをも暗示していただろう。
予約した宿は、年齢相応の少し落ち着いた風合いのもので、そこに二部屋予約したのだが、入り口から部屋までの間明るく見えていた廊下の間接照明は、より入口に近い部屋に新菜さんが入ったあと、少しだけ落ち着いたトーンに見えた。
私は新菜さんについての印象を妻に素直に伝えた。妻は、
「そうでしょう、だって私の好きなひとだもの」
と言って、少し得意そうにしていた。そこから私と妻は、ぼんやりと天井を見つめながら、どこが一番楽しかったか、ぽつりぽつりと話していた。そういう時間が好きだった。
一泊の旅行というものは案外慌ただしいもので、それから30分ほどで、ホテルが用意してくれた夕食の時間となった。新菜さんは少し早めにドアをノックして私たちを廊下へと呼びたてた。夕食はビュッフェ形式のもので、新菜さんはマグロの握りずしを山盛りに取ってきていた。私は一回に、一皿の半分くらいだけ料理をもってくるのが常で、それから二回目に行くことも、それで満足してしまうこともある性質なのだが、普段私と同じように料理をもっている妻は、新菜さんに倣って好きなものを山盛りにして嬉しそうに写真を撮っていた。お皿は長方形の、仕切りのあるお皿だったが、新菜さんと妻の盛りつけはそんなことは構わずに溢れんばかりだ。しかし、それを見ていて折角のビュッフェなのだから、取りたいものを好きなだけ取って舌鼓を打つのもなかなか良いものであるようにも思われたし、幸せそうに好きなものをほおばっている妻のことが、一緒に住み始める前のようにかわいらしく思われて、それもまたよいように思われた。それで私も真似をして、二回目で山菜蕎麦をたくさん持ってきたら、二回目であるのことを失念していて、途中で満腹になってしまった。
食事の後、ずっと別々の部屋にいては味気ないということで、新菜さんの部屋でお酒を飲むことになった。新菜さんはトランプを持ってきていて、学生時代以来、本当に久しぶりにいくつかのゲームをした。久々だったので、どのゲームもルールがうろ覚えで、新菜さんと妻がプレイするのを見て、途中から入ることばかりになっていた。新菜さんは教え方が上手で、昔から同じルールで遊んでいるはずなのに、なんとなく楽しいような気がした。聞くところによると、新菜さんもトランプは久しぶりだとのことだった。昔から、なにかそういう会があれば、積極的にお菓子やらおつまみやらゲームやらを張り切って持っていくのは、どんなところに所属しているときであれ、決まって新菜さんの役割だったそうだが、この歳になっても結婚していないひとというのはだんだん少なくなってきて、みんなが家庭を持ち始めると、自然と友だち同士の旅行というのは少なくなっていって、新菜さんもそういう役目を果たすことはいつの間にか大分減って行っていたそうだ。
トランプは十時くらいにお開きになった。妻は新菜さんに断って、二人でホテルの周りを散策しないかと私を誘ったのだ。ホテルは人工池の畔に建っていて、その池は綺麗な長方形の形をして切り出してきたライトグレーの石に囲われており、都会的な美しさを見せていた。妻は、さっきまで新菜さんといたときのテンションが残っているのか、まだはしゃいだ様子を見せていたし、私もおそらくつられて少し上機嫌でいたが、なんとなく妻のはしゃぎ方は、新菜さんとはまた違うように思えた。強いて言葉にするならば、いつも楽しそうにしているひとは一緒にいて楽しいものだけれど、ふだん生活の苦楽をともにしているひとが、たまに羽目をはずして楽しそうにしているときにこそ、幸福感が際立つような感じがする、といったところだろうか。そんな風に説明的に表現してしまうと、なんともつまらないことに思われるけれども、ライトグレーの石のぴしっとした直線と、妻の後ろ髪を照らす池の畔の金色の小さな灯りの群れは、そのことを、それに相応しいような情緒的な仕方で、表しているようだった。夜の道は足元がおぼつかないものだけれども、その池の周りは綺麗に舗装されていたので、下を見ることなく、私たちはゆっくりと池の周りを回った。角が来るたびに、なんとなく、内側と外側を交替しながら、どこに視線を動かすでもなく、どこともなくずっと同じところを見つめているような調子で、盛んに話をしながら、一周ではなんだか勿体ない気がして、二周、三周と池の周りを回った。少し離れたところにある片側一車線の国道を、やけに早い速さで飛ばしているガソリン車のエンジン音が時々聞こえてくるのが、不思議と心地よかった。それでいて、妻とどんな話をしていたのかは、いまひとつ覚えていない。妻の輪郭はやけに美しく見えて、いつもより一層繊細に、妻の指の感触と、結婚指輪の硬さを感じていた。その晩私は妻を久しぶりにベッドへと誘った。
Ⅶ
旅行に行く計画は、妻の言葉に対する返事として切り出したようなものだったので、旅行が終わってしまうと、いよいよ妻の提案に対峙しなければいけなくなった。新菜さんを婚姻関係に迎え入れるのか、入れないのか。
旅行から帰って、まだ一日残っている連休の、少し疲れの残る朝十時半の朝食で、そんなことを考えていると、妻がこう切り出してきた。
「私たち、別々に住むことにしない?」
それは青天の霹靂で、動揺せずにはいられない提案だった。妻は、少し詰まったような感じで唾をのみ込んだあと続ける。
「たしかに、旅行中、どうやって振舞ったらいいのかわからなくなっちゃったことが何度かあって。友だちを前にしているときと、恋人を前にしているときって、やっぱり感じが違うんだね。」
恋人、という言葉に、例ならずなんとなくどきっとする。真田さんなんかは、婚姻関係に友だちと恋人がいるから、結婚してからも恋人のことをずっと恋人と呼び続けているけれど、私たち夫婦は、昔のように男女一人ずつでずっと完結してきたから、わざわざ呼び分ける必要はなかったし、籍を入れた、という特別感に浸りたくて、夫婦と呼び合っていたら、いつの間にか生活感に飲み込まれて、それ以外の呼び名は似つかわしくないようにさえ思われていた。
「だからね、私が新菜との結婚を提案したとき、ちょっとためらうような感じでいたでしょ、そのことにはわりと納得しちゃった。でもね、やっぱり新菜は友だちとして特別なひとだし、もちろん恋愛っていう意味で好きなのはあなたひとりだけど、最近はそういうことを忘れていたものね、久しぶりに旅行でそのことを思い出して、だから一層、恋人でいるっていうことを大事にしたいなって思ったんだ。」
私がじっと耳を傾けていると、これじゃあ一人芝居みたいじゃない、と妻は少しばつが悪そうに顔を赤らめた。そう言いながら、
「新菜はこの年になってもまだ結婚してないでしょう、そのことが心配な気持ちもね、でもねえ、やっぱり強くなっちゃって、新菜ってだれにでも明るく振舞えるように見えて、誰にでもって誰でもないってことでもあるじゃない、それでね、だからこれは、もともと私だけの希望から出たお願いに、さらにお願いを重ねるみたいにはなっちゃうんだけど、もしもね、新菜とも結婚するっていうことになったら、私新菜と一緒にいることを選びたいなって。それは新菜のこともそうだし、ほら、なんか生活感に飲み込まれちゃうにはもったいないくらいには素敵な恋人を生涯の夫にしたなって思ってるんだよ」
妻の顔は嬉しそうで、その嬉しさが私に向けられていることは、夫婦だから、よくわかった。私はもう一度、少し考えさせてほしい、と言った。
もし私と妻が別居することになったら、それは二人の関係の後退を意味するのだろうか。昔のひとはこういうとき、それがほとんど離婚と同義だと受け取ったのだろう。今の妻は、一緒に暮らしていなかったころの恋人同士に戻りたいと言う。複数人で結婚をするとき、友人と恋人がごちゃまぜになっていたら、一緒に住むには気を遣うし、別々に住むなら、そのうちの誰かにとっては、結婚というものは結局ほとんど紙切れだけのもので、病院における面会権という本当はとても重要だけれども普段はほとんど意識させられない権利を除いては、これからもずっと親密で特別な関係を維持することができるのだろうか、という不安を抱えることになるのは当然だ、ということは、一応頭ではわかっているつもりではあった。しかし、それが自分となると、途端に心もとない気がする。思えばまだ実家に住んでいたころ、デートをしなければ恋人には会えなかった時分は、いま思い返すとなんと心もとないことだろう。そんなことをああでもないこうでもないと考えているうちに、私は、素直にうんとはうなづけない自分を発見した。
一方で、なんとなくうん、とうなづきたいような気持ちもあった。家事を分担して、生計を一緒に立て、どの火災保険に入るかを検討するプロセスは、たしかに妻の言う通り日常感に溢れすぎている。ホテルの畔の池で久々に思い出した、恋人として妻を慈しむ気持ちは、たしかに大切にしたいと思ったし、相応の年齢にあったときたまたま交際していたひとと結婚したという偶然性がかなり大きなところを占めていたように思われた結婚だが、妻とともに積み重ねてきた日々の重さを思えば、いま改めて、恋人である妻と結婚したいという考えは、時間を経るごとに大きなものとなっていた。そういう考えを、げんに妻と共有することができていたのは嬉しいし、そういう意味でいえば、妻の言うことは理にかなっている。
結局私は、少し考えさせてほしい、と言った。妻は、そうするべきだ、と言っているように、静かにうなづいた。こういうとき、妻の寡黙さは力強さを表している。婚姻が、恋愛関係にある男女一人ずつによる生殖を前提とした法制度のもとにあった時代、こういうことを考える夫婦はいなかっただろう。自由な関係というのは悩ましいものだが、一度納得できさえすれば、その関係の純粋さは、きっと強さとなるだろう、そんな気がした。私は少し珈琲を啜って口に含んだ。妻も珈琲を飲んだ。それから、ぽつりぽつりと、話し始めた。
参考文献
Brake, Elizabeth. Minimizing Marriage: Marriage, Morality, and the Law. New York: Oxford University Press, 2012.〔エリザベス・ブレイク,久保田浩之監訳 『最小の結婚:結婚をめぐる法と道徳』白澤社,2019〕