『西園寺さんは家事をしない』とブレイク、ノディングス
導入
TBSの火10で今季放送されているドラマ『西園寺さんは家事をしない』(現在8話)は、 主人公の西園寺が、同僚の楠見とその娘ルカと同居(「偽家族」)を始める物語である。同ドラマは漫画を原作としているが、本文ではドラマ版の、現在放送されている部分のみを対象に議論を行う。
楠見は、火災で家を失ったところを主人公の西園寺に偶然発見され、特に楠見が仕事とルカの育児との両立に困難をきたしていることを心配された西園寺によって同居を提案される。西園寺は、ルカの保育園の送迎を嚆矢として、主にルカの育児を中心にさまざまなケアを楠見と共にすることになり、その過程で、ルカや楠見に対しても愛着を感じるようになる。楠見が西園寺への感情を、ルカに対するものと同じ家族愛であると述べたことによって、西園寺もまた、楠見への愛情を家族愛であると解釈した。西園寺は、偽家族を家族愛に基づくケア関係と自己定義したことで、自らに求愛する横井との交際が楠見への裏切りにならないことを確認し、横井と交際を始めた。しかしながら西園寺と楠見は、実際にはロマンティックな愛を感じ始めてもいる。
ブレイクとノディングス
エリザベス・ブレイクの最小結婚は、結婚を、成人間のあらゆるケア関係を包摂するものとして再定義し、これを法制化しようと考えるものである。このケア関係には、同性愛、異性愛、モノアモリ、ポリアモリ、あるいは友情などが包摂される。ブレイクの提案は、ケア関係を成人に不可欠のものとして位置付けることにより、それをより広範にアクセスし得る形で提供する必要が導かれることから生まれており、また、一夫一妻制異性愛のみがケア関係の中で特権的な地位を享受している現状に対し、それ以外のケア関係に付与されたスティグマを積極的に解消する目的から、結婚という名を残したままケア関係の一般化が行なわれている。つまるところ、最小結婚以外の結婚制度は正当ではないというのである。さらに、ケア関係を維持するために必要な法的配慮、もしくは市場により自然に達成されえないと考えられる重大な私人間の配慮のために、ケア関係に関する規則が法的に定められる必要を論じ、最小結婚が存在しないこともまた正当でないと主張する。このことから、最小結婚は正当化可能な唯一の制度であると言える。
ノディングスは一方、母子関係を基軸としたケア関係のみを法制化して特権的な地位を与え、それ以外のケア関係に与えられる特権は排除されるべきだと考える。母は、脆弱な子からのケア需要に応えるために、彼女ら自身脆弱な立場に身を置かざるを得なくなっており、それにより男性配偶者への二次的な依存が生ずる。それにより、性的関係を前提とした家族(「性的家族」)の存在が必須であるかのように宣伝され、それ以外の家族形態、たとえばシングルマザーの家庭がスティグマ化されている。ブレイクが成人間のケア関係を基礎的なものであると考えた一方、ノディングスは、子が母に対してケアを求める脆弱性こそが最も本質的なケア関係であると定義することによって、それ以外を排除することを主張するのである。しかしながら、仮に母子関係以外のケア関係の特権化が行われなくなったとしても、二次的依存の問題が解決するわけではない。そうなったとき、母が二次的に依存する先が誰になるのか、それを人間本性に基づく自然的な解決に任せていては、結局は法的な正当化を付与されない性的家族が存続するだけではないか。こうした疑念からブレイクは、成人間のケア関係もきちんと制度的に整える必要があると反論する。
ブレイクの検討
第一に、ブレイクの提案を偽家族に適用してみよう。西園寺の提案する偽家族は、まぎれもなく成人間のケア関係であり、それも、ブレイクの主張する、一対一異性愛の結婚という従来の家族制度によって救い切れなかったニーズを拾い、成人に対するケアという基礎的な価値をよりよく実現できるような、ブレイクの想定するケア関係に特有の事例を構成する。もちろん作中ではそのような制度は法制化されていないため、偽家族をすなわち最小結婚による家族であると言うことはできないが、最小結婚が実現した際の家庭がどのようなものとなるかの一つの試案として本作を評価することができるだろう。
最小結婚のいう成人間のケア関係とは、単なる家事労働の分担のことを言うのだろうか。それともより精神的なケアを含むものなのだろうか。直感的に考えるだけでも後者が制度としてより望ましいことは言うまでもないが、『西園寺さんは家事をしない』の事例を検討することで、精神的なケアは最小結婚のもとで必然的に生まれてくることを認めることができる。
西園寺は当初、家事や育児を分担するという、(アーレント的用語を用いるならば)労働としての家事を効率的に行うという経済的合理性から偽家族を提案し、楠見との事実上の最小結婚を果たした。しかし、偽家族の結成にはルカの同意が必要不可欠であったから、ここで偽家族は成立直後から単なる経済的合理性に限られない性質を帯びるようになり、それが楠見によって家族愛と定義された。実際、家族愛という概念が顕在化する前から、西園寺はルカに対して、単なる必要最低限度以上のケアを行っており、それはうまくいけば活動、そうでなくとも(独りよがりになってしまったとしても)仕事と言うことのできるものとなっている。更に、作中ではルカを育てる中で最低限しなければならないことについていっぱいいっぱいになっていた楠見が、西園寺との共同生活によって実現された効率性によって人間性を回復し、仕事や活動ができるようになった様子が描かれている。楠見の当初の状況は、楠見が完璧主義に陥っていたことに由来するものではあるが、完璧にこなすことは、一応ひとつ独立の価値ではある。偽家族は、こうした労働としての家事のクオリティを落とさずに、つまり労働の完璧性という価値を損なわずに、成人の人間性を回復して、人々を仕事や活動へと向かわせる有益な手段であることが例証される。家族の結成がその成員の同意なくしては円滑に果たされえないことを考えれば、こうした仕事・活動としてのケアは最小家族が要請する成人間のケア関係に必ず含まれると考えるべきである。
なお、最小結婚はもちろん、ロマンティックな愛情に基づく家族を否定するものではなく、そのような従来的な関係もまた包摂し得るものである。したがって、第八話で西園寺と楠見が互いの関係のロマンティックな性質に自覚的になったとしても、横井との関係はともかく、彼らの関係が最小結婚の要件を満たすこと自体はなんら妨げられるものではない。
ブレイクの掲げる、最小結婚を法制化する必要性は、『西園寺さんは家事をしない』においても部分的に示唆されている。西園寺は当初、ルカの送り迎えを代行した際、ルカの保護者として登録されていなかったことを理由に、これを拒否されている。その際には楠見が直接保育園を訪ねて西園寺の保護者登録を済ませることによって解決が図られているが、この問題はブレイクが提起する、結婚が法制化される必要がある事例の一つであるところの、病院における面会権と地続きになっている。ただし、この点をめぐってはノディングスの項でより詳しく議論する。
その他の検討すべき事項として、『西園寺さんは家事をしない』における西園寺とルカの法的関係は、ブレイクの法制化案においても曖昧なものとなっている。最小結婚は成人間のケア関係を保障するものに過ぎないので、西園寺からルカへのケアは直接には対象になっていない。最小結婚が間接的にであれバックアップするのは、西園寺が楠見の二次的依存先になることによる、ルカが楠見に依存する状況の継続性のみである。
とはいえ、家族というのは推移律の適用できないものなのだろうか。甲が乙の家族であり、乙が丙の家族であるとき、甲は丙の家族ではないのだろうか。直感的に考えると、この問題に対しては推移律が成り立つと考えるのが妥当であるように思われる。ただし、最小結婚が想定する家族は現在の家族とは意味合いが異なるので、この直感は無批判に信頼できるものではない。例えば最小結婚は友人同士のケア関係を包摂するが、甲が乙の友人であり、乙が丙の友人であるとき、甲は必ずしも丙の友人であるとは限らない。また、ポリアモリについても問題になる。現状の結婚では不貞行為は離婚事由となるから、最小結婚でも既存の配偶者の同意なくして新たな結婚をすることはできないようにも思われるが、不貞行為を離婚の正当な事由と考えるのは、現在の家族が性的家族だからであって、このことは必ずしも自明ではない。さらに、傍系尊属との関係については、人によって異なる感覚を有するだろう。すなわち、本人と配偶者が家族であり、配偶者がその親と家族であるとき、本人と義理の親は家族だろうか。近代日本の社会慣行ではこの関係は一応家族と呼ばれることになるだろうが、全ての人がこの判断と一貫した感覚を有しているわけではないだろう。実際横井は、特段楠見と家族になりたいわけではないだろう。
最小結婚は、財産の相続や病院での面会、勤務地への配慮という法的利益のみを規定する制度であるので、実のところ、家族の内実には立ち入ってこない。そのため最小結婚の家庭がどのような家庭となるかは完全に各家庭のより善い生・より善い関係についての構想に任されており、それゆえに最小結婚はリベラルである。すると、法的な側面に限って言えば、ルカは西園寺から何の権利も引き出さないし、何の義務も要求しないということになるだろう。もし西園寺がルカに法的権利を与えたいのなら、西園寺はルカと別個に法的関係を結ばなければならない。おそらく最小結婚の制度では、親の配偶者と養子縁組をするようなことが可能になる。なお、現行の日本の婚姻法でも再婚相手の連れ子と養子縁組を結ぶことは可能である。このことから裏返して考えると、最小結婚の配偶者と性的な関係にあり、女性側が妊娠・出産した場合、男性側はその子に対し追加的な法的関係を認定しなければ法律上の親子になることはできないという、少々奇妙な結論を導き出すこともできる。
補足すると、最小結婚は各家庭の実践理性に対し何ら規定的な力をもたないが、成人同士の何らかの善の構想に基づいたケア関係を支援する効果は持っているのであり、先に述べた、最小結婚が西園寺と楠見に仕事・活動の機会をもたらしていることと、最小結婚のリベラル性は両立可能なものである。
別の論点として、横井と楠見が同時に西園寺にロマンティックな感情をもち、西園寺がモノアモリであるためにそれを受け入れることができなかった場合、最小結婚の家庭はどうなるだろうか。現行の婚姻法では、西園寺と楠見が既に婚姻していた場合(このドラマでは二人は婚姻届を提出していないが、偽装夫婦系の他の作品ではそのような作品も多々見られる)、西園寺が横井とのロマンティックな関係を望んだ場合、楠見は西園寺の不貞を理由に離婚を言い渡すことができ、その場合でも西園寺は、(もしルカと養子縁組を結んでいた場合、それを解消しなければ)ルカの養育費の支払いを求められる可能性がある(この事実は、現行の性的家族が二次的依存を担う存在であるというノディングスの分析の正しさの傍証である)。最小結婚では、ロマンティックな感情は要件とされていないため、西園寺はロマンティックなパートナーとして横井を選んだとしても、楠見に対する家族としての法的義務を逃れたということはできず、両者が離婚を望んだ場合、それは西園寺の責めに帰すことができない。そのため、養育費の支払いをめぐる問題では西園寺の分が増すだろう。ただし、西園寺が、ロマンティックなパートナーがいるにも拘らず他の人と結婚することを厭う個人的信条を有しているために離婚を望む場合、西園寺は依然として不利な立場に立つ。最小結婚は成人同士のケア関係、それも労働でない、人間性に満ちたケア関係を支援するものであるから、本来このような想定は野暮ではあるが、一応法制度である以上は、以上のように想定すべきである。
ノディングスの検討
ノディングスの提案においては、楠見とルカの関係のみが法的に承認されることとなる。なお、ノディングスは女性へのエンパワメントとして母子という語を用いているが、本作品のように、シングルファザーが育児を担って言う場合、これを父子と読み替えて議論してよい旨を明言している。楠見が二次的な依存先として西園寺を選んだことは、性的家族を標準化する現行の婚姻法のもとではスティグマ化されるが、ノディングスの提案の中ではそうしたスティグマが受け入れられること自体がごく自然なことと捉えられるはずだから、偽家族の関係も自然なものとして世間に承認される。楠見は西園寺による偽家族の提案を受けるにあたって、常識にもとづき当初は抵抗感をもっていたが、この常識とは、換言すれば、性的家族以外を疎外するスティグマそのものである。したがって、性的家族以外の家族の脱スティグマ化が行われれば、それは最小結婚と同様、偽家族の結成をエンパワメントすることになる。
では、ブレイクの提案とノディングスのそれとで、どちらが偽家族の結成をよりよくエンパワメントできるだろうか。ブレイクの提案は、偽家族を直接的に法的に包摂し、法的な正当化を与えている点では、偽家族の結成を直接働きかける役割をもってもいる。しかし、最小結婚が法的利益にまつわることのみを対象にする以上、最小結婚をすることはそれなりの覚悟をもってしなければならないだろう。現行制度においても、すべてのカップルがすぐさま結婚をするわけではない。多くのカップルは、結婚して互いの生に対して法的義務を負うことを真剣に捉えており、それゆえに軽率な結婚をしない(特にパートナーの妊娠を契機とした結婚は、育児に対して両親が責任を持つ覚悟を法に基礎づける行いということができる)。すると、より一般的に私的にケア関係に至った成人同士が最小結婚を届け出る効果もまた、現行の結婚と同程度には限定的である可能性がある。ノディングスの提案におけるエンパワメントは、スティグマの除去という間接的なものである。しかし、先ほどの例を持ち出せば、おそらく多くのカップルが軽率な結婚を選ばない理由は、離婚の際の問題を考えるということ以上に、現行の結婚が共同生活を始めとする多くの要件を要求しており、そうした社会的な要求に彼・彼女らの関係が耐えうるものであるかどうかについての慎重な精査によるところも大きいだろう。とすると、ブレイクとノディングスの提案が成人同士のケア関係のエンパワメントとしてもつ効果は、どちらも主にスティグマの除去に起因するものであり、大差ないと考えられる。
ブレイクが結婚の法制化に依らなければ市場的に達成できないとしたことのいくつかも、単にスティグマを解消するだけで実現可能である可能性もある。西園寺がルカの保護者として保育園にすんなり承認されたことの背景には、楠見自身の同意に加えて、そもそも働いている人にとって保育園の送り迎えは大変であり、しばしば祖父母のような両親ではない人に委託されるものであるとの社会通念が関係しているようにも思われる。西園寺はその後楠見との関係を周囲の保護者にも受け入れられ、安堵する場面の描写があるが、実際のところ西園寺のルカに対する地位の承認は、この例のように、法的というよりむしろ社会的なものであることが多いようである。ブレイクと比べて幾分も楽観的な見方にはなってしまうが、病院の面会や勤務地の問題においても、母子関係以外の関係が法的に承認されなければ、圧倒的に大多数の家庭において法律とは関係なく考慮すべき事柄になるのだから、実態に応じて柔軟に対応されるように思う。病院がすぐさま子供以外、たとえば配偶者の面会を認めなくなると考えるほうがより不自然である。企業の勤務地については微妙であるが、そもそも現行法においても婚姻していても遠方への転勤を命じられるケースはあるため、ブレイクやノディングスの提案に固有の問題ではない。西園寺とルカの間の相続については明らかに問題があるが、そうとなるとノディングスのアイデアでは非常に多くの現在一般的な家庭においても父が子に財産を遺す法的特権性は承認されないから、おそらく別個に養子縁組などを結ぶことが当然となるだろう。
結論
本作はエンタテインメントであるし、現行の法制度における成人間ケア関係を描写するものであるので、本作描写の妥当性についてブレイクやノディングスの分析を援用することは妥当ではない。しかし、本作はブレイクやノディングスが志向する社会状態を先取りする例として、彼女らの議論をより具体的に検討するための多くの示唆を与えてくれる。ブレイクについての検討では、第一に西園寺が楠見のケアを担う以上、ルカとの関係構築という経済的合理性に基づかない関係への理解が不可欠となるため、最小結婚は義務的なケア提供を担うのみならず、必ず人間性の回復に資するものであることを確認した。第二にしかしながら、ルカが西園寺と直接法的関係をもつことになるわけではなく、ポリアモリの家庭においても新たな結婚は既存の配偶者の同意を法的要件としないこととなる点など、最小結婚の制度設計を精緻化した。第三に、西園寺が楠見と離婚する場合、現行法と最小結婚でどちらが西園寺に有利になるかを検討したが、西園寺の不貞行為を法的に基礎づけられない以上、楠見の同意次第で西園寺の正当性は大きく変化することが確認されたにとどまった。ノディングスについての検討では、非性的家族へのスティグマ化が法的問題以上に作中生じる社会的問題の実質を担っていることが明らかになり、当初思われたほどは、ブレイクによるノディングスへの批判が妥当しないことが明らかになった。
今後の展望としては、特にない。第九話が楽しみです。わくわく。