好み・モード・関係
最近、昔からのフォロワーの方のスペースを聞いていたら、ドイツ語の雑誌の話やロシア語の文法の話をされていて、それにとても安心感を覚えた。
高校生のころ、世界は狭くて、(単に私がそういう視点をもっていなかっただけというのもあるが、)人間のタイプはずっと少なかった。その中で私はTwitterをやっていて、なんとなく、自分や周りのひとたちのことは言語界隈、と言われていた。
大学に入ると、外国語を学ぶのが好きな人は案外たくさんいることが分かって(それは私が幸せな世界にいることの証左でもあるのだろう)、それも陽気な会話を楽しむタイプばかりでなく、分析や理論を楽しむ人も相当にいることを知って、そんな集団の中では、外国語が好きなことは自分の特徴では必ずしもなくなって、そして、分析や理論が好きなpolyglotの中にもいろいろな性格のひとがいることがわかってきた。高校の交友関係を振り返る機会はそこそこ多くて、彼らのことが好きだった理由を考えるうちに、次第に趣味よりも性格とか、価値観とか、そういったものを重視するようになっていった。
『花束みたいな恋をした』がずっと気になっていて、それなのにきっかけがなくて見ずに来てしまったから、前評判やら批評やらばかりを先にタイムラインで読むことになった。『花束みたいな恋をした』はおもしろくて、穂村弘の名前が出てくる映画があって、それがヒットしたということは純粋に嬉しかった。そして、それを良いものだと感じたために、私は自分自身を批評にしたがってサブカルと分類せざるを得なくなった。淡い色の抽象的なアイコン、丁寧な暮らし、poeticなツイート、そういったものの一部を今までの自分の中に発見することもあった。
しかし、この分類にはわりあい早々に違和感を覚え始めた。私はわりと権威主義でハイカルチャーに価値を認めており、秩序や静謐さを愛していて、アンダーグラウンドやダダはあまり好かなかった。それに、自身をサブカルに分類して、サブカルの思考様式や嗜好を追うことにもなんとなく違和感を覚えた。というか、それがひとつのモードに過ぎないということを認めた瞬間に、魅力的だった深遠で濃厚な知識や世界は急速に色褪せてしまった。
すると、自分の中に内在する好みの一部が、やけにサブカルというモードの影響を受けて幅を利かせているような気分になった。幅を利かせている、ということは、少なくとも程度にかんして本当のこととは異なるということであり、だから、自分の口をついて出る言葉が、なんとなくすべて嘘であるような気がしてきた。
短歌や考え方を褒めていただくのはとても嬉しいことだけれども、自分自身の言葉遣いにもなんとなく自信を失ってしまった。一方で、それらは自分にもともと内在するものでもあるので、安易に切り捨ててしまえるものでもなかった。自分とモードとの境目にあるおかしな陥穽に囚われているような気分になった。
昔仲良くしていたあらゆるフォロワーと今でも親密な関係を保てているわけではない。高校時代、学年でたった一人の言語趣味者であった私にとって、同好の士というのは、秘密を共有しているような甘美なつながりに見えていたが、いまではよりつよく根本的な紐帯を築けるひとたちだけが、その中で残っているようだ。中にはもうあまり外国語を学ぶことに精を出さなくなって、大学に入って見つけた専門に邁進している方も少なくない。だから、同好の士同士であっても、最近はそういう目で人を見ることは自然と減ってきていた。その挙句に、自分の言葉が信じられなくなったというわけだ。
そんなとき、昔からのフォロワーの方が自然と言語の話をし、外国語を読んでいらっしゃることを知って、なんとなく、モードとか、そういうものに辟易していた私にとっては、自然で、貴重で、言葉に縛られない可塑的で唯一的な関係がまだ存在し得るということに、救われたように思う。