共鳴
résonance
originel, 25 juillet 2025
知ってゐることが違ふ。それって氣が合ふとか合はないとかぢゃなくて。隣にゐるのに、隣にゐない。觸れないから喧嘩もできない。さみしい。
何かを知ってゐることが當たり前のことだと思ふのはいけないことなのだらうか。それは、人と人とを斷絕させてしまふだけど、つまらない行ひなのだらうか。何かを知ることは、こんなにも世界を明るく鮮やかにしてくれるのに、人と人との間柄だけは、觸れ得ぬものにしてしまうふのだらうか。
同じ人間だから、同じ感情をもってゐるって信じたい。でも、かなしみはどこから來る。憤懣はどこから来る。期待してゐたことと違ふことをされて、裏切られたと感じたらかなしい。輕んじられたと感じたら慍る。だから、期待してゐること、たうぜんだと思ってゐることが違ふと、氣持ちの共有すらできなくなってしまふといふの。
氣持ちは自分だと思ふ。頭で考えたことは、正しいことだから、だれにとっても同じで、自分がゐなくてもやっぱりそれは正しい。氣持ちは自分しかゐない。だから、自分の氣持ちはたいせつで。たいせつなもののことが、ほんたうは自分にとってしかたいせつでないと知ることはかなしい。同じ氣持ちをもってゐるひとなら、氣持ちは共鳴するから、自分の氣持ちはひとの氣持ちにもなる。ぢゃあしないときは?ひとり。世界があざやかになるやうに見えるのは、自分がひとり灰色の孤獨に棄て置かれていくだけなのかもしれないね。
ひとと自分で知ってゐることが違ふなんてあたりまへのことで、だから友だちの話は面白いのに、廿二にもなって、こんなことを嘆いてゐる。