大学前半のことを思い出したい
大学を卒業して五か月になるそうです。まだ長い時間が経ったというわけでもないのですが、なんとなく大学の残り香のようなものは少しずつ消えて行ってしまっているような気もします。たとえば大学の友だちと会おうというときに、たいてい一回はもう会っていて、二回目も人によっては会っていて、やっぱりさみしいから一度二度は会うよなあっていうふうには思うんですけど、三回、四回と会っていくというのは単なる同窓会以上にある程度継続的な関係を結んでいくということで、自分としてはそれを衷心から希うものなのですが、人によってはそういうところが一つのハードルになってしまうのかなあ、みたいなことを思ったりするというような、そういう時間が経ってしまったなあという感じがします。そんなわけで、ありがたいことに大学はそこそこ友人にも恵まれ楽しかったなあという気持ちで卒業したのですが、大学のことを思い出そうとすると、いかんせん最近ということもあるし、大学の友だちとしてぱっと思い浮かぶ人たちというのは運営をやったサークルとかぜみのことが多くって、前半のことというのはなかなか思い出す機会がないなあと思うわけです。
この記事を書くきっかけはふたつあって、ひとつは最近二外で同じクラスだったひとのことを夢に見たということ、もうひとつは、思い出を回顧する中で他人の大学のアドカレを回って知らないひとの記事を読んでいたら、後半が友だちが多く楽しかった、というようなことが書いてあって共感を呼び起こされたことです。たしかに大学後半のほうが楽しかったような気はするけれど、なんとなくそれをすべてにしてしまうのは、日々の中に楽しみを見つけながら生きていた大学前半の自分に悪いような気がしてしまって、こういう天邪鬼さばかりがあるのですが、いまなら大学後半の時分よりも客観的に大学前半を評価できるような気がして、そういう願いを抱えてこの記事を書きます。
とはいっても、大学前半にかかわっていたひととの関わりは切れてしまっていることも多くて、高校の友だちほど信頼関係があるわけでもないから、どこまでインターネットに書いてよいものなのかはわからず、むづかしいところもあります。
一年春
二外
二外のひとの話が出てきたから二外の話からすることにしましょう。二外のクラスはほんとうにたのしくて、いま思い出しても、間違いなく大学前半最大の輝きです。私の出身学部は二外の必修は一年半なので、おおむねみんな一年半で二外を卒業します。私は既習申請をしていたので、二年生のひとたちと一緒に授業を受けることになって、それに大学に入学して初めて受けた月曜五限の授業がちょうど二外のふらんす語だったこともあり、客観的に見ればさぞかし緊張したことだろうと思います。ただ、そもそも大学のはじめというのは緊張するものなので、その一般的な緊張によって上級生のクラスに入るっていう個別の緊張を覆ってしまうことができたっていう意味ではよかったのかも。ともかくそんなわけだったのですが、二外のクラスのお兄さんお姉さんがほんとうにいいひとたちで、そもそもわりと仲のいい和気あいあいとしたクラスだったし、へんに内輪ノリとかに走るわけでもなく自然と話を振ってくれるようないわゆるコミュ力の高いひとが多いところだったので、私は彼ら彼女らのことがたちまちに大好きになってしまったのでした。弊学部の二外は週二と週四から選ぶことができるのですが、私は週四を選択したので、週に四たびはこのクラスに行くことができて、大学というのはなかなか知り合いに会えなくてさみしいところですから、そんな中でこのクラスはとても心の支えになったのでした。
その中のお二方とは二年生の秋にぜみで再会することができましたし、ほかのおひとりとは四年春のふらんす語でまたご一緒することができ、また三年秋の授業でもお二方とご一緒することができて、それはそれは嬉しかったです。二年生同士はしばしば一緒にご飯に行ったり、ドライブに行ったり、そんなふうに遊びに行っていたようで、私も時々放課後のマックに誘っていただいたり、ごはんにご一緒したりと、なかなか高校生のときにはハードルが高くてしなかったような経験をさせていただいて、とても嬉しかったです。
ふらんす語週四を選ぶ方々なので、わりと意識が高く、長期インターンやビジコンなど、そのあと結局大学生活で通らなかった道の話題をよく耳にしていたのもいい思い出です。当時は無駄に焦っていましたが。
基礎演習
基礎演習は、(それほど実態がないとはいえ)一応大学前半におけるクラスとされているもので、ぜみに入るまでは基礎演習の先生がいざというときの最終的な担当をしてくださいます。(よくわかりませんが、たぶん退学するときとか?)そんなわけで、一応クラスだよ感はお互いに持ちながら授業に出ていたと思います。ただ、いかんせん春学期のあいだの半期しか続かないコミュニティなので、大学生活前半において大きな存在感を発揮するには至りませんでした。二外も実はそうだったのですが……。基礎演習では一人仲良くしてくれたひとがいて、授業がなくなってからも二度くらい一緒に出掛けたのですが、その後は自然に疎遠になってしまって、いまどんなことをしているかはあまりわかりません。それからのちにぜみで一緒になる同期もいたようで、恐縮ながらこのクラスにいたときのことはあまりよく覚えていないのですが、もっと早く仲良くなっておけばよかったなあ、と勿体なく感じます。彼とは卒業式のときに一緒にこのときの基礎演習の先生に挨拶に伺おうと探しに行ったのですが、見つからずじまいで、尻切れとんぼでした。私が入学したときはまだ蔓延防止等重点措置やらなにやらがあったこともあり、このクラスでご飯にいった記憶もあまりなく、なんとなく近くの数人と話していたなあという感じがするのみです。あと男女比が(もともと偏っているこの学部の中でも特に)偏っていて、なんとなくクラスが二分されているような感じがあったので、そういう意味ではあんまり雰囲気がよくなかったです。
一方、題材については非常におもしろく、記憶によく残りました。ドイツ司法がご専門の先生と一緒に『憲法で読むアメリカ史』という本を読む企画で、アメリカのこと、憲法のこと、通史以外の視点で見る歴史学のことなど、いろいろな見方に触れることができたのが嬉しかったなあというのを覚えています。憲法は高校まででいうとどうしても日本国憲法そのものと同一視することが多いのですが、アメリカ憲法を知ることで、日本国憲法を相対化することができ、背景にある立憲主義についてもなんとなく想像をめぐらせることができるようになったと思います。憲法の歴史というとイギリス憲法の話が多いですが、アメリカ憲法はより、君権の制限という保守的な考えから離れたリベラルな視点でつくられており、また社会契約を実践したほぼ唯一?の国家でもあるので、その後ぜみで進むことになる政治思想の下敷きという点でも非常に勉強になりました。
中間・期末レポートもちょっとした思い出です。入学したばかりでむだにやる気があったのと、高校時代世界史を学びながらその時代・地域の言語をかじっていた習慣の継続として、大学が契約している電子書籍や電子ジャーナルの記事を原語で読みながらレポートを書くということをやったので、その後原著を読むハードルがかなり下がり、ぜみの先生に学部生にしてはかなり原著を読んでいるという嬉しいコメントをいただくきっかけになったので、これはよかったです。
英文読解
クラスでいちばん同年代の友人ができたのはこのクラスでした。教科書を忘れて隣のひとに見せてもらったのを機に、三人でご飯を食べたり、寮をちらっと見せてもらったりしました。惜しまれるのは、高校時代ちっとも休日にひとと遊びにいったりしなかったせいで、あまり遊びに行くというのが分かっておらず、とりわけまだ仲良くないひとと仲を深めるために遊びに行くという概念をぜんぜん知らなかったので、夏休みを境に疎遠になってしまったことです。
授業内容はかなりユニークで、オイディプスの英訳を週二で各15頁くらい読んで見たことのないギリシャ神話系の単語の山に苦しんだり、英語圏で作られた日本の地方選挙のドキュメンタリー映画を見たり、欧米の大学入試の哲学のエッセイに出そうな題材でグループワークをしたりしました。先生の人柄も個性的だったのもあり、つらいようなたのしいような不思議な感じだったのを覚えています。また、大学の英語の授業はクオリティが低いという風説が流布されており、それなりに警戒していましたし、実際そのような授業もありましたが、その中では群を抜いてレベルが高かったので満足でした。やっぱりこの大学だったらふつうに英語を教えるんじゃなくて英語で何かを教えればいいと思う。英語を教えるのってもう高校でやり尽くされてる。
英会話
四人の少人数制の授業でした。授業自体はあまりおもしろいものではない、というか、小中高と連綿とつづく意図のよくわからないゲームやロールプレイングの類のようなものだったのですが、英語でさえあれば割と自由に人と話をすることができたので嬉しかったです。少し気の合いそうな人がいたのですが、なんせ完全オンラインだったこともあり、期末後に一度だけみんなでご飯にいってインスタを交換したあとはすっかり梨のつぶてになってしまったのがいま思い返しても残念です。滅ぼせコロナ。
サークル
中国語のサークルに入りました。サークルというのは適当に二、三個入って水の合うところ一つに残るものだということを後から知ったので、中学の部活よろしく一つにしか入らず、後から思うともっといろいろなサークルに入ってみるチャンスを逃してしまったようで残念に思います。短歌会とか入ろうかどうか四年春まで迷ってたし。とはいえそのサークルでたまたま馬の合うひとを見つけられ、運営をやって卒業まで在籍していたくらいなので、それは僥倖だったなあと思います。このころの活動はすべてオンラインで、zoomのブレイクアウトルームで話すのが主流でした。私はろくに中国語ができなかったのと、大勢の輪に割って入って話すのが今以上に苦手だったので、これはありがたいシステムでした。あと会員が半分くらい中国出身の人だったので、男子校出身人間としては、そもそも出身国が違うことで文化的背景の共通性を有する必要がない空間というのは入りやすかったです。防疫のせいで日本に来られず中国から参加しているひともいて、その人のいるカフェの様子などを見ることができ、インターネットのすごさを感じました。それはそうと高鉄の案内放送の真似をしているひとが複数いるやばめのサークルだったと思う、この頃は……。代表も親しみの持てる良い方で、三年春に就活で苦戦したときにもこの先輩が紹介してくださった方にお世話になりました。ちなみに私は自分があまり社会性がないせいで誰に対してでも人当たりのよい感じのさらっとした人には少し気後れしてしまい性質があり、このころはそれが今以上に酷かったので、個性的かつフレンドリーな方のことが好きでした。代表もそうです。
教習所&anki
教習所には三月くらいから通っていて、川を挟んだ隣町まで歩いて行っていたので、その間ずっとankiを回していました。そのおかげで中国語の単語を覚えられたし、韓国語もちょっとわかるようになったので良かったと思います。免許は春学期が終わるころに取りました。
夏休み
せっかく春学期に築いた関係がすべて切れてしまい勿体なかったです。そもそも緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置も断続的に発令されていて、我が家は警戒心が強めの家だったので、あまり遊びに行くというのが憚られたという言い訳を残しておきます。そんな中で、ついったのフォロワーとは春学期の終わりごろから実際に会って遊んだりするようになり、夏休みはそれもあってついったへの傾倒度を高めるきっかけになりました。 時給千円の暇なバイトで一日をつぶしていたほかは、県をまたぐ移動を避ける意図もあって散歩(異常歩行)やサイクリング(異常ママチャリ疾走)に出ており、葛南~23区くらいの範囲の解像度がかなり高まりました。その中でひまわりを見たり、夏の夕暮れを見たりして、夏が好きになった二か月でした。思えばいままでは部活や講習で忙しく、あまり夏を満喫したことがなかったな、と気づかされたのでした。あのころはまだ気候変動もいまほどひどくなく、夕方は涼しかったので、区内の水辺でゆったりと流れる時間とたわむれたりしていました。
一年秋
一年秋はさみしかった記憶がつよく、これが大学前半の印象を低める原因になっているように思います。二外も二年生のお兄さんお姉さんたちが去ってクラス替えになってしまいましたし、基礎演習や英語読解、英会話といった、人と強制的に話すクラスがなくなってしまったのも痛かったです。また、サークルの活動日が授業と被ってしまい、せっかく入ったサークルにも足が遠のいてしまっていました。引っ越しのために断捨離をしたり、ものの保存方法を変えたりして過去の自分と痕跡と振り返る機会が多かったことも、内省的な性向に拍車をかけました。
二外
上述の通りクラス替えで、既習を選んだ人や、必修が切れた後も履修を継続した数寄者によって構成される少人数のクラスでした。ただ、私のほかに既習を選んだ人というのは基本的に附属校出身の人で、それなりによくしてくれたとは思うのですが、どうしても過ごしてきた時間の壁を感じてしまったり、高校ごとの空気感の違いを実感する機会が多かったりして、馴染んだと言い切るのはむづかしいです。快速電車の止まらない駅に住んでいたのですが、帰り道が一緒になったときも、必要より早めに降りて各駅停車に乗り換えたりしていたように思います。
一方、授業の内容的には進みが早くなったのは確かで、人数が減った分先生も春以上にひとりひとりの学生に気を向けてくださるようになったので、悪いことではなかったと思います。文学系の学部でもないのにふらんす文学の講読をしてくださり、古い校舎の薄暗い夕方に、弱い蛍光灯の中で基地のようにふらんす文学を精読していたのは牧歌的でよい時間でした。よくない学生なのでついーとをしながら授業を受けていたのですが、フォロワーの方が「#なんこうくんの学生生活、もといツイート生活を見守る会」というタグを作って話し相手になってくださり、とても救われたのを懐かしく思い出します。また、空きコマに少し離れた大型書店に行った帰り、路面電車で文法担当の先生と居合わせたのも良い思い出です。ひたすら院進を薦められました。
私は二外というものが好きで、とうぜん言語学習を趣味としているからでもあるのですが、二外という制度があう程度普遍的に存在していることが、大学のリベラル・アーツへの敬意を示している感じがして、モラトリアムを実感できて嬉しいのです。このころのふらんす語の授業はまさにそんな感じの格調高さを感じさせるもので、うれしく思い出します。それゆえに、授業の一回一回、そこで出会う新出単語のひとつひとつを、数奇なめぐり逢いとして珍惜していて、あまり普段使いしなさそうな単語ほど嬉々としてankiに入れていました。そのおかげで、sangloterのような文学的な言葉だったり、cardiaqueのような特定分野の単語を見ると、このころの空気をありありと思い出せてありがたいものです。
あみ
こうした二外・サークルの事情や、夏休み以降ひとりでついったを見ながら過ごす時間が長くなってしまったことで、だいぶ殻に閉じこもりがちな人間になってしまいました。思い出ゾンビ、という言葉を頻用して高校のころのことをしきりに懐かしがっていたのもこのころのことです。高校の友だちのことを「あみ」と呼び、大学の知り合いとは呼び分けて、ウチとソトの線を引いていました。
一年秋にはあみの何人かと旅行に行きました。その後、サークルやぜみの合宿といったある種公式性を帯びた宿泊行事に参加することは何度かあったのですが、純粋に友だちと旅行をしたのは、大学生にしてはめづらしいことに、卒業旅行まではただこの一回だけだったので、行ってよかったなあと思います。四人で四班に分かれて班行動してたけど。上りサンライズに大阪から乗るとかいう若者らしい旅程を組んだのもそれゆえに当然このときだけで、いい思い出です。旅行先の零時ってなかなか来ないんだなあ。
憲法
私があみと呼んで親しく付き合っていた友人たちのうち何人かとは一年春から一緒に法学部の憲法を受けていました。部活の先輩に薦められた授業なのですが、かなり権力抑制としての憲法の役割に重点を置いた説明が展開されていました。政治思想をやると、ロールズのような(批判はあるにしてもある種)控えめなリベラリズムのほかに、もっと積極的な道徳を説く意見も多く目にしますし、どうしてもその中で自身と考えの近い思想に傾倒してしまうところもありましたが、この授業で養われたtyranny of majorityに対する厳しい視線は、リベラリズムを擁護する大きな動機として、ある種パターナリスティックなそうした思想たちに対する牽制の役割を自身の中で果たしていると思います。春学期の評定は並でしたが、秋学期は優上をいただけて、それはこの授業ではややめづらしいことだったので、それはそれは嬉しいものでした。
ついった
このころは月一くらいで誰かしらのフォロワーと遊んでいて、その予定を楽しみに指折り数えて日々を過ごしていました。上述の旅行でも現地のフォロワーの方が何人も時間を作って会ってくださったりして嬉しかったです。旧東海道を歩いたのも思い出深いですね。フォロワーの方が教えてくださった中之島の薔薇は、それから一年くらい携帯の待受になっていました。フォロワーの方は年上が多く、大学生らしいお出かけの仕方にも慣れていらっしゃる方が多かったので、一年春で私に著しく欠乏していた人付き合いの仕方や誘い方などはついったで身に付いたところも大きいと感じています。あの頃親しくしてくださった方の中では、いまでもふぁぼを送り合う方もいらっしゃれば、あまりついったではお見掛けしなくなってしまった方もいらっしゃいますが、あの時間はとてもありがたいものだったと感じています。
一方、ついったといっても完全なインターネットというよりは特定の大学のコミュニティに混ざり込んでいた感も少しあり、そうした大学(のついったに上がってくる楽しそうな部分)と自分の大学を比べてしまい、大学の人ともっと関わってみたり、心を開いたりする機会を失ってしまったのはもったいないことだったかもしれません。
個人サイト
ついったで親しくしてくださった方々も、私も、自分の世界を大切にする傾向があるように感じられ、そういう性質が深まったのもこの時期です。この文章を投稿している記事置き場や、その上位ディレクトリにある個人サイトを作ったのもこの時期で、初期の文章の中にも、お気に入りのものがいくつもあります。
庭園
このころはまだオンラインの授業が相当数残っており、そのころしばしば言われていた通り、対面の授業の前後にあるオンラインは登校時間の関係から大学で受けざるを得ないというのと、一限のつぎが五限、というような下手な(好奇心に振り切った)履修をしていたので、多くの空きコマが生まれ、大学の周りをたくさん散歩しました。庭園からオンライン授業に参加することも多く、しばしば背景が紅葉していました。パソコンのうえに落ち葉が舞い落ちると、パソコンの物質性が浮き彫りになって、オンラインの空間が途端に手のひらに容易に収まるようなかわいらしいものに見えてきたのを覚えています。大学の時間はうっすら夜型よりなので、秋から冬にかけてののどやかな日が少しずつ傾いたかと思えば、つるべ落としのようにすぐに夜闇がしのびよってきて、町が夜の支度に雑踏の気を帯びるさまを肌に感じることがよくありました。
ば
一年くらい研修が続くバイトだったので、このころもまだ研修を受けていました(夏休みの時給が千円ちょっとだったのもそのためです、いまだったら最賃がもっと上がって千二百円になっているでしょうね)。本部一括採用でいろいろなところに派遣されるバイトだったのですが、このころ派遣された街は大きなアーケードの商店街があって人が活発に往来している、とても夕焼けの似合う街で、遠き山に日は落ちてのチャイムとともに外が暗くなり始めたころに、煌々と輝く蛍光灯のもとでバイトを始めるのが、アディッショナルタイム感があって浮遊感のある時間でした。経験豊かな社員の方にひたすらついていたので、安心感や気楽な楽しさはありつつ、責任ある楽しさはあまり味わえない感じで、対人の仕事なのに対人関係において観客の立場に甘んじるような感じもあり、少し寂しかったようにも思います。この町には大学から歩いて行くことができて、天高く馬肥える秋のもと、少しずつ変わりゆく住宅街の波をよく楽しんでいました。
二年春
このころも一年秋の続きのような日々を過ごしていました。二外は一年半なので、この時期まで同じクラスでしたし、サークルも一年秋で行けなくなってしまったために、この学期でも少し足が遠のきがちになっていたと思います。一方、さすがに春なので、秋や冬よりは外の気候からして気分は上がるような感じもします。また、予定が整わずフォロワーと会う機会も少し減り、インターネット上で話すことが多かったので、秋と比べて、明るいひとり、という感じでした。
経済史A
この授業は、一年秋に経済史Bを小テストの受け忘れで落としたことにより急遽履修したものです──が、とても受けがいがありました。第三世界の当事者性を再評価する立場で、たぶん潮流としても現代的で歴史学の現在に触れるのにもよかったと思います。経済史Bは本当につまらなくて、もし落としていなかったら経済史へのイメージが最悪になるところだったので、禍転為福かもしれません。期末レポートでは西アフリカの近代貿易についての英語の本を三冊ぐらい読んだのですが、ぜったいにもう二度と読まない分野なので、思い出深く、やってよかったと思います。このころもまだいまほど気候変動がひどくなかったので、屋根つき・空調なしのスペースで、やや朦朧とする意識が却って没入感を高める効果を感じながらレポート執筆に励みました。
某
これもあまりいいイメージがない授業の話なので名前への言及は避けますが、どこかの授業で一緒になったことのある人と一緒に受けていました。だれかと一緒にいるのに一人のときよりさみしい、そういうことを感じるようになったのはこのころかもしれません。
ば
初めて研修を終えて独り立ちしました。お客さま対応の電話がやけに多くて緊張しましたが、その分四年間の中でいちばん一人ですべてをし切れている感があり、後から思い返すと楽しかったです。拠点は半年で移動になることも多かったですが、二年生の一年間と四年生の一年間はひとつの場所でずっと過ごしました。
ふらんす語会話
文学部のいちばんむづかしい会話の授業を通年で取りました。たぶん大学四年間でこの授業がいちばん難易度が高かったと思います。それだけに満足感がありました。たしかボードレールがご専門?の、お年を召されたお上品な女性の教授が先生をされていて、この先生のことも大好きでした。私がMarie Laforêtを好きなのを言ったら世代だったらしく大変びっくりされていました。
メンバーもよく、褒め上手な一年生や、映画がご専門のおしゃれな四年生など、どの人のことも好きでした。会話の授業だったこともあり、個人的なことを話す機会も多く、楽しかったです。
ばすく語中級
これも通年で取りました。一年春から取っており、秋は英語の必修と被っていけなかったのですが、その続きということになります。私を含めて三人しか受講者がおらず、またわざわざバスク語の中級を取るひとはおもしろい人なので、このクラスもそこそこ好きでした。先生が社交的なのもありかなり話をする機会は多かったと思います。こうしてみると一年秋と比べて会話が生える授業がある程度確保されていて、またそこのひとたちのことも好きだったので、あんがいわるくない時間割でしたし、心持ちが少し上向いたのもおかしなことではないなあと思います。
英語演習
ここでも基礎演習で同じだったのちのぜみ同期と一緒だったようですが、また仲良くなるチャンスを逃していました……。どちらかというとさぴあに載ってる人間がいるな~話しかけるべきかかけないべきか、みたいなことをひたすら悶々としていたら終わってしまい……。内容は数次の産業革命と経済格差の関係についての本の講読で、ふつうにおもしろかったです。また、週に50頁読むことを課せられていたので鍛えられました。
さ
上述の通りあまり足繁く通ってはいなかったのですが、昼休みにキャンパスでたまたま同じサークルの人に会って食事を共にし、そもそもオンラインばかりだったので新鮮でしたし、話が合って嬉しかったです。彼とは卒業まで(そのあとも?)仲良くしていましたが、二年の夏から留学に行ってしまったので、このときはそれっきりで少し残念でした。
ついった・ときぽな
ついったでもっともときぽなを使っていたのはおそらくこのころで、高校の友人とときぽなで待ち合わせをするのに挑戦するなど、楽しい時間を過ごしました。人工言語でコミュニケーションを取るのって浮遊感があって好き。
一年秋の正月ごろに遅まきながら大学垢を作ってみたのですが、自大学界隈の雰囲気にあまり馴染めず、どうせ同じ学部でなければ授業で一緒になることもないひとならば、同じ大学であることに拘泥するより、どこの大学であれ一緒にいてたのしい人といよう、そういう開き直りをするようになっていました。
夏休み
ば
研修期間を脱してからおよそ二回目のまとまった休みとなったことで、ますますいろいろなところに派遣され、知らない町の雰囲気を見たり、その土地のひとと仕事を通じて関わったりすることができたのがとても楽しかったです。大学後半になると担当がなんとなく固定化されてしまうような感じもあったので、そういう意味ではこのころが一番楽しかったかもしれません。一年秋もわりとピンチヒッターを積極的に引き受けていろいろなところに行っていました。
アイヌ語口承文芸
大学生活で唯一取った集中講義です。アイヌ語に惹かれて取ったのですが、口承文芸の要素が強く、それが未知の世界だったので、期待以上にとって良かったと感じます。少数言語の先生は学生にたいしてフレンドリーな方が多く、この授業内限りではありましたが、独特の空気感を楽しむことができました。集中講義は大学にしてはめづらしく一日中同じ場所にいて毎日同じひとと顔を合わせることになるので精神衛生上もとても良いですね。
散歩
行先にマンネリ感が出てきたぶん、週二で自転車で船橋に行くなどやんちゃしていました。そのあとやんちゃしすぎて自損事故を起こしたので、このころが自転車遊びの最盛期で、このあとはひたすら徒歩ばかりになります。そのほか、春学期のGWに甲州街道歩きをする過程で道を間違えて山を登頂してしまったのを機に、登山ってたのしいかも!になり、高校の後輩を誘って筑波山に登ったりしました。
二年秋
すごく夜(八時~零時)ごろに活動したイメージが強く、あまりに夜すぎて却って暗さを意識しない、というか、光っている街灯とかが明るい印象が多い、そういう時期でした。さっきから書いてて気づいたんですけど私時期のこと光量で判断する性質がありますね。
ば
一年春のときのさーくるの代表の紹介で翻訳のバイトを始めました。就活で印象に残るかな、みたいな打算的な理由で初めてしまったのですが、めづらしい経験でよかったと思います。基本はパソコン作業のバイトだったのでひとりで作業していることが多かったですが、面接を受けにいったときに、ベンチャーのオフィスみたいな感じのところを見ることができ、またその後のチャットアプリの雰囲気なども若々しい感じでいい経験になりました。繁体字中国語を和訳するバイトだったので繁体字中国語を読む速さが爆速になりました。このバイトは四年まで続けており、だんだん就活を言い訳に仕事を取ってくるのをためらいがちになってしまったのですが、それでも定期的に数千字の繁体をどわーっと訳していたので、いまでも簡体より繁体のほうが親しみがありますし読みやすくも感じます、べつに簡体に慣れてなくて日本語脳で読んでるとかではなしにね(と思いたい)。ただ作業感がつよくちょっと大変ではありました。
さ
とても光栄なことですが、なぜかサークルの代表を任せていただきました。就活で使えそうという打算もありありがたく役職をいただくことにしました。さっきから就活の打算の話しかしてない。将来やりたいことがぜんぜんなかった分、進路に見合った対策のようなものがなく、却って単線的な市場競争としての就活ばかりが大きく見えてしまっていたため、こういうことを考える機会も多かったのです。むしろインターンの応募が始まってやるべきことが明確化してからのほうが楽になりました。
さて、サークルの運営に与ることを許していただいたのはとてもありがたいことで、すると毎回活動に足を運び、幹部とは毎回会うことになりますから、それは大学で初めてできた安定した居場所であるように感じられました。このころには対面活動のノウハウもある程度蓄積されていっていたというのも幸運でした。特に関わる機会の多かった副代表のことは、じつのところそれまであまりよく知らなかったのですが、話しやすい雰囲気で安心しましたし、比較的慎重派な事の運び方が、仕事を進める上でも馬が合い大変ありがたかったです。三年春になってしまいますが、代表を後任に引き継ぐ際にgoogle documentで共有しながら資料を作ったら20頁とかになったのが懐かしいです。
そのほかにも、企画系はいろいろな幹部の方が助けてくださりとてもありがたかったです。お蔭で私は比較的得意な事務作業に徹することができました。そのせいで学生生活課の資料をやたらと読み漁り、本学のサークル制度や手続きのオタクに片足を突っ込みました……。
ふらんす語会話
春からの続きですが、メンバーが少し変わりました。学年が近く、よく話していた褒め上手の一年生は引き続き残ってくれたので、むしろ少し親密になれた気がして嬉しかったです。政治や広告、文学における表象性など、比較的内容のある話も多かったですが、クリスマスの過ごし方など親しみやすい発表の機会もあり、たのしい授業でした。バスク語は完全に引き続きでした。
某
これも名指しは避けますが、英語学位の授業でした。内容はオルタナティブ性がある感じでちょっとおもしろかったのですが、ひたすらレイシズムに走る最悪の染まり方をしたアジア系アメリカ人がたくさんいて治安は悪かったです。そういうところっているときは嫌なんだけどあとから振り返るとまあそういうところもあるってわかってよかったねって思ってしまう、これって適応規制ですか?
散歩
この時期も空きコマを意識してつくり散歩に勤しみました。場所としてはあらかた生き尽くした感もあったので、好きなところに何度も行って季節ごとの顔ぶれの違いを確かめるような、そういう愛するっていう感じの散歩の仕方をしていたと思います。大学の周りが秋が深まると綺麗ってところがたくさんあるのでね。
二年秋になると、ぜみも始まり、三年以降現在までとの連続性も強くなってくるので、二年秋についてもう少し書くべきことはあるかもしれませんが、一旦このあたりで筆を擱くことにします。この記事を書くにあたって、写真などの記録を見返すこともしたのですが、そういうものを見ているときより、直接思い出しているときのほうが、当時のことをありありと思い出せ、懐かしい気分に浸ることができました。私は高校の半ばくらいまで写真があまり好きではなく、本当によいと思っているもののことは忘れないと信じていました。また、短歌を詠むことも、当時の自分にとって効果的で意図に適った記録の遺し方でした。だんだん記憶力に自信がなくなって、却ってたくさん写真を残すようになりましたが、あのころ考えていたこともあながち間違いでないことを感じます。短歌はなんど濾して個別性のえもさを取り除いても残る感情を書かなければならない(と私は思っている)ので少しハードルが高いのですが、こうして散文を書いて見るのもよいものなのかもしれないな、と思います。中高のころは部誌があって、こういう文章を書く機会が定期的にあったのですが、最近はめっきりなくなっていました。これからもたまにはこういう文章を書いていきたいですね。また時期が変われば、大学前半に対して異なる印象をもつこともあるかもしれませんし、きょうの気分とべつのときの気分によって思い出すものがぜんぜん違うということもあるでしょうから。またやりたいです。