車から降りる
無難な返しをしているときって自分がいなくなってしまったみたいな気持ちになる。TPOに応じた返しには最適解っていうものがあって、それは誰がしても同じひとつの答えで、それって自分がいてもいなくても同じことじゃない?
無難な返しをされたらかなしい。模範解答なんて知ってる。自分でも想像できるもの。あなたの不正解が知りたい。やさしいあなたの言葉の、包まれた綿を指先でそっと押したとき、指の腹をかすかに感じる角っこが奏でる不協和音──それがあなたをあなたたらしめる。
喧嘩がすきなわけじゃない。もしかしたら同じ角っこを自分も持っているかもしれない。もしかしたらその角っこはかっこいい鋭利さをもったものかもしれない。あなたの角っこに触れたい。
喧嘩がすきなわけじゃない。自分の角っこを勢いよく他人にぶつけることなんてしたくない。あなたが優しいやわらかな指の腹で私の角っこをなぞるとき、私は自分の角っこをあなたに慎重に押しあてて、あなたの指の腹が少しだけへこんだのを感じる。感覚を鋭敏にして感じる。慎重にして感じる。だから少しだけ角っこを見せるとき、明るいものはもっと明るく、あざやかなものはもっとあざやかに、きれいなものはもっときれいに見える。まぶしい。月の清冽な光にかすかに照らされた鈍色の反射を見た。
あなたと私が違うこと。それは私の存在を確かにする。あなたは私ではない。私はあなたではない。だからあなたと話すことはおもしろい。私は自分を肯定する。 かなしさは波のようにくる。ひたひたと、ひたひたと。明るさも波のようにくる。わーっと。
無難な返しをするのはたのしい。ゲームをしているみたいだ。カーブを急旋回するレスラーのように、生を享けたこの世の中をうまくまわっている気持ちになる。そういうときに鈍色の反射は見えない。それだけ。