les impressions et les expressions

無題

sans titre
originel, 05 décembre 2025

最近文章を書くのはかなしいときばかりだ。あ、いまはべつに悲しくないよ。なんとなく文章が書きたいなあって思ってたのに、書くことがなくて、だからそのことをメタ的に考へてゐただけ。
さうはいってもこのブログ?って結構「書くことがない」っていう出だしで始まる記事が多いんだけどね。

きれいなものを見たときにも動く心は持ち合はせてゐる。けれど、昔よりそれが言葉になりにくくなったと思ふ。インプットが足らないのかなあ。

けれど、言葉による表現だけが表現なのだらうか、とずっと思ってゐたことも事実だ。もちろん、印象もまた同じだ。あるものを解釈することが言語的にしかできないとすると、ロゴスから抜け落ちたうつくしさは、いともたやすく手のひらからこぼれ落ちてしまふ
そのことが学部生のころはずっと怖かった――といふか、そんな感情的な気持ちはなくて、さういふこと自体もロゴスといふ回路を通じて(ぴーす)批判的に(ぴーす)受け止めてゐた(批判的なのに怒ってゐないといふのはロゴス的なエピステーメーだ)。

かなしいときの気持ちって純粋な気がしてかはいがりたくなる。なにか嫌なことがあったとき、そのことを他者に向けずに、反応としてただひかってゐるやうな。もちろんそれって周りに気を遣はせることで、だからかはいがられたくなるっていふことでもある。ただひかってゐるだけぢゃないんだね。

かなしいときの気持ちは言葉によく馴染む。かなしみが内的なものだからなのかな。
自分といふ存在(思考と存在は同義だ)は、ロゴス的?なのかな――そんなふうにおおっぴらにいふのは恥づかしいけれど、すくなくとも一定のひとよりはさうみたいで、だからエピステーメーの外側を意識するのは違う文明に向き合ってゐるときばかりなのかもしれませんね。

みたいな話を聞いてくれるひとがゐるのは嬉しいことだね。

dicentes totos nunc distantes, tranquilli facti summus.

πρόσθεν ἦν τις, ἥ ἔφησα μοι τόδε ποίημα αὐτῷ ἀγαθὸν. αὕτη ποιημάτα μου εὖ ἐγίγνετο· πολύν μὲν γὰρ κακὰ, τόδε κατὰ λόγον τὸ κάλλος λογοῦ ᾄδειν. δοκεῖ καλὰ ποιήματα κατὰ λόγον. φαίνει μόνον καλὰ οὗτως λέγει οὖκ εἶναι κόλακες.
δολεῖ μοι, ἀγαθὸν αὑτοῦ εἶναι, πένης γὰρ αὑτοῦ τ'εἰρημένον. διὸ ἔλιπον με ὑπερεχόμενον.

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