親密な間身体的主体性の成立と社会の侵襲
boy meets girlといえば、平凡でつまらない話のことを指す。平凡でつまらないというのは、裏を返せば普遍的だということだ。恋愛という営みはどうやらずいぶん普遍的な営みのようで、気づけばあたり一面猫も杓子も恋愛をしている。恋愛を描いたコンテンツが見る者の共感を呼び、大きな支持を受けているのもそのためである。
では、凡庸さこそが恋愛の鍵なのかというと、そうではない。そもそもごまんといる知り合いの中で、monoamoryのひとにとって恋愛の相手というのはひとり、polyamoryのひとにとってもひとりではないけれど相当に特別な関係性であって、当人個人にとってはまったく凡庸ではないものなのだ。これはたいへん矛盾した二つの性質であり、恋愛というのはむづかしい。
じつは、このむづかしさを秘めているものがもうひとつある。それは自分自身である。自分というのは、おおぜいいる人間のひとりに過ぎなくて、あらゆるひとにとって、ほかのひとと同様に他者だ。しかし、本人にとっては、それが唯一の本人であるという代えがたさをもっている。
本人が本人であることを定めるものはなんだろうか。それはそれが本人以外にとって本人でないということに他ならない。本人そのものによって本人を定めることはできず、あくまで否定の述語によってしか定義することができないのだ。というのも、自己というものは可塑的なもので、接している相手(特にいないときも含む)によっていかようにもかたちを変えてしまうのである。
恋愛もきっとまた同じで、というのも恋愛それ自体が人間関係の一種である以上、だれとするかによってその内実はいかようにも変わってしまうのだろう。そして、その恋愛にかかわる当事者たちは、互いにつよい影響を及ぼし合うのであって、その影響力はほかの関係の比ではなく、それゆえに、恋愛関係における主体性は恋愛関係そのものにあって、恋愛の当事者たちはその関係性という間身体性に従属する存在であるとさえ言える。
へんな話だが、恋愛によって結ばれた夫婦の間に子どもができるというのはひじょうに首肯できる話だ。いや、それ以外の経路によって子どもができることもあり得るのだが、恋愛によって結ばれた夫婦の間に子どもができるというのが社会の中で一般的なこととして捉えられているのは、たんにパーセンテージの問題ではなくて、じっさいにそれが合点の行くことだからなのだと思う。自然科学者たちは、子どもができる原因というのは性交にあるのだと言うのかもしれないが、じつのところ(不妊治療に取り組んでいるカップルを除いて)このことはあまり直感的ではないのではないかと思われる。性交をしたときに実際に授精から着床にいたって妊娠する確率は、ひとりの人の人生がかかっていると思えばあまりに大きいが、因果関係を直感的に描くにはあまりに小さいし、実際に授精にいたるのにも、そのことを実際に知ることができるようになるのにも、あまりに時間がかかる。それよりも、カップルの間身体性に自らの個人としての人格が従属していく感覚、つまり自分と相手との間にべつの主体が発生する感覚こそが、子どもが生まれるということなのではないかと思うのだ。自然科学者たちに向けていうのなら、妊娠を目指して性交をするためには、それを目指す心理になるための動機が必要であり、それは人生のあいだでそう何度もするものではない以上、むしろそのような心理状態は例外的なもので、この例外を許容するトリガーが、間身体的な主体性の感覚なのではないかと思うのである。
間身体的な主体性の感覚が発生するためには、同一化への強い相互作用が必要である。これを「しっくりくる」というのだと思う。しっくりくる相手がいるのではなくて、しっくりくるように自分と相手の双方が変化していくのだ。その作用が多い場合、子どもというのはできない(そういう気持ちにならない)。
子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」/穂村弘
あまりにも有名な歌なので、歌集『シンジケート』の文脈の外にも広く知られている(短歌というのはそもそもそういう読みを許容する形式だ)。この記事もそれに乗っかって(甘えて)この歌を引用する次第だ。子どもを作る(=同一化への強い相互作用を及ぼし合う)関係でない関係とは、どのような関係なのだろうか。
有名な歌なのだからこういうときに有名な評をすらすらと引ければいいのだけれど、浅学にしてぱっと出てこないので(有名すぎてみんな正式な場所で話すのをためらっている気もする)、いまここで検索して引いた評をいくつか引いてみる。
朝倉冴希の記事は、シンジケートというのは競馬の種馬に投資する仕組みらしい。シンジケートってサンディカリスムかシンジケート・ローンでしか知らなかった。朝倉は、「ひょっとするとそのような冷徹な商業的システムを暗示しているのかもしれ」ないとして、「ひょっとするとそのような冷徹な商業的システムを暗示しているのかもしれないと思う」と読む。『シンジケート』にしろ、『ラインマーカーズ』にしろ、好書好日が「社会への違和感を軽々と表現」したと表現するような歌は数多くあるから、この歌も、穂村がよいと思うものというよりも、悪いと思うものを詠んでいると見るべきなのだろうか。
一方、シンジケートは本来仲間、組合のことを指す語だ。ラインマーカーまみれの聖書も、聖書という権威主義への反発ではあるものの、60年代の学生運動であれば、それを燃やすなり破くなりしただろうところを、ラインマーカーまみれにして、権威の座からは引き下ろしつつ、権威の衣を剥がして、それそのものが何であるかを等身大に読み込みながら、自分たちの一部にしていく営みの帰結なのである。そうした傲慢さが、軽々とした姿勢、80年代の若者たちのニューウェーブの象徴として、この歌を広く読み継がれるものにしているように思われるのだ。
婚姻は、法的には婚姻届っていう行政書類に定められ、伝統的には結納やら何やらの不可解なしきた、そして「ちゃんとした」ひとと結婚することが孝行であるという観念、そして究極的にその延長線上にある、子どもを設けることへの社会的期待さ、こうした権威をまとった存在だ。「シンジケート」はそれをニューウェーブ的に茶化した表現なのである。穂村はむしろシンジケート側におり、だからこそ歌集のタイトルにしたのではないか。
シンジケートはひとりでは組むことができない。シンジケートを組むということは、異なる他者であることを認めつつ、たんなる社会におけるひとりとひとりではない関係になるということである。その中では、「壁に向かって手をあげ」させるようなコンフリクトが何度も発生するが、最終的にはそうしたことを茶番としてすませてしまう。私性を命とする歌人らしいしたたかな逃げだ。(ほかにシンジケートを家族のことであると読む例に、谷川嘉浩の評がある。谷川は、「『普通』に出会った、偶然の人達の、束の間の集まりを、『それでも』と必然化する」という「能動的」な関係がシンジケートであると読む。「血や地の関係」が、理性=主体性とは異なる論理による関係であるとすれば、それに抗するシンジケートは、やはり個人の主体性と特別な関係性を両立させようとする試みだと言えるだろう。)
ただ、結局のところ、こうしたシンジケートが実現可能なものであるかどうかはわからない。主体性は、個人の存在を前提にすることによってしか定義できないものだ。そしてその個人というもの自体が、否定によってしか定められないものなのである。婚姻によって、出産によって、自分でないのに、自分であるようなできたとしたら。その中で個人を維持することは可能なのだろうか。子どもを作るというのは、間身体的主体の成立のひとつの帰結であって、子どもを作らないことを選択肢さえすれば、個人としての主体性が維持できるわけではないのだから。
恋愛における間身体的な主体が、純粋に当事者間のみに由来するものであれば、それは理想的なことだ。しかし、実際には自分ではない他者に対する気づかいを通じて、この間身体性には社会性が侵入する。子どもが生まれると、その子どもの主体性は、一層親の意思から独立したものであるべき倫理的要請があり、それによって却って、子どもの主体性と親の主体性が社会規範によって疎外される逆説を孕んでいる。恋愛はつまらないのではなく、つまらなくなるのだ。そしてつまらなくなったとき、その本質的変化を反映して、その名前は婚姻へと変わる。それは、個人の主体性が失われ、社会化された間身体性を容れる器へと、自らが変化していく過程なのであろう。