les impressions et les expressions

丁寧なくらし

la vie consciente

「丁寧なくらし」といふものが流行してゐる。くらしは丁寧なはうがよいが、なかなか実践するのはむづかしい(むづかしいからこそ対象化され、はやってゐるのだらう)。

丁寧なくらしは習慣性をともなふ。くらし、といふくらゐだから当然かもしれないが、一度だけ思ひつきで良ささうなことをしても丁寧なくらしとは思はれない。習慣性といふのは実際精神の安楽に大変重要だ。そのことは、時間的な問題と、人格的な問題のふたつのことから云へるのである。

習慣の中に、けふとあす、そしてきのふとの区別はない。習慣性において、ひとびとは円環的な時間をいとなむのである。さて、これに対する直線的な時間観念は、しばしば単線的な成長意識をもたらし、ひとびとを焦燥へとみちびく。きのふとけふ、けふとあすが異なるといふ意識は、すくなくとも時間的な比較を可能にするものであるし、それはたやすく他者との比較へとつながっていく。その中で、ひとびとはその比較軸によって疎外される。円環的な時間観念の静的性質は、かうした不安からひとびとを解放する。直線的な時間は、しばしば終局的な墜落のイメージをもたらす。のびきった草は、いつか自重に耐へかねて、たふれてしまふ。ひとはいつか老いて死ぬ。習慣性はをはりから意識をそらしてくれる。それに、輪っかといふものは、少しずつ小さくしていくことができるものだ。習慣そのものを、それが習慣であるといふ本性にしたがって毀なふことなく、老いていくことができる。

人格的な話をするならば、習慣といふものの主体性のなさは、こんにちのひとびとにとっては息抜きになるだらう。合理的経済人となったひとびとは、つねづねみずからの価値軸に照らして選択をおこなふことを強要される。選択といふものは、実のところ思考よりも疲れるものだ。それは思考の衣をまとってゐて、ふだんは渾然一体として区別しかねるものだが、現に思考といふのは自明の理をたぐるものであって、形式的な問題にすぎず、なにをたぐり、たぐった結果をどうみなすのかといふ選択こそが、およそ思考とおもはれてゐるものの正体である、とりわけ思考といふものをなにか苦労のいることだとかんがへてゐるのならば。習慣は、「よりよく」なることの可能性、「よりわるく」なることの可能性、ほかのものに取りかへられることの可能性といったあまたの説明責任からひとびとを解放する。およそ個人のくらしにとって、こうした説明責任は本来必要のないもので、わたしたちは習慣によって、合理性のredundancyを解消することができるのだ。

「丁寧なくらし」は意識の高いものだらうか。さうではない気がする。だが、近代主義のはこびる世のなかで、その前提である直線的時間と合理的個人といふ根底を捨て去るのは、水分子を分解するのと同じくらゐにはエネルギーのいることであるやうな気はするものだ。

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