les impressions et les expressions

『ひなぎく』の二重の表象

Les Représentations Doublées dans Les Petites Marguerites
écrit, 10 mai 2026

滑り込みで『ひなぎく』(Sedmikrásky)を見てきました(東京での公開は16日まで)。『ひなぎく』は、ヴェラ・ヒティロヴァ(Věra Chytilová)による1966年のチェコスロバキアの映画です。

さて、この記事では、映画の内容をほぼそのまま書こうと思います、ほぼそのままなので特に人に見てもらうべきような文章ではないのですが、まあ自分の中の整理用として……

映画の主題

『ひなぎく』の主題は二つあると言われています。ひとつは少女の生きざま、そしてもう一つはチェコの民主化・独立運動です。正直この前評判を知ってから見に行ってしまい、そしてこの整理でもこのパラダイムは覆っていないので、この整理にはあまり論考としての新規性はありません。

なお、話の前提としてチェコの民主化について少し触れておきます。オーストリアによる支配から脱したチェコスロヴァキアは、第一次世界大戦後に独立しますが、ナチス・ドイツによる占領を経たのち、ソ連の衛星国として共産党の支配下に置かれます。それゆえチェコにおいては、民主化は独裁政権からの解放を意味しつつ、同時にソ連やドイツといった大国から民族のアイデンティティと独立性を恢復するナショナリズムとしての側面を同時に持っています。本作公開の2年後に、共産党支配を緩めようとするドプチェク書記長の動きを封じるべく、ソ連が軍事介入を行うプラハの春が起きており、本作もその影響で発禁となります。

二種類のシーン

『ひなぎく』は、モノクロフィルムで撮影されたシーンと、カラーのシーンの二種類が交互に目まぐるしく移り変わることによって構成されています。

モノクロのシーンでは、少女たちが中年の男性をからかったり、中年の女性を煙に巻いたり、町中の装飾品を壊したりしています。舞台は実際のプラハの町中や郊外、プラハの名所を模したセットなどになっており、ピルスナー・ウルケルのビール瓶が映されているなど、現実のプラハを見ることのできるものです。一方、カラーのシーンは彼女たちの家の中の風景で、ベッドやキッチンがある一方、謎の水色の紙切れを燃やしていたり、青りんごがそこら中に転がっていたりと、却って象徴主義的で、どちらかというと彼女たちの精神世界を描いているかのようです。

この整理では、前者のシーンを「いたずら群」、後者のシーンを「精神群」と呼ぶことにします。

二重の表象

本作の興味深いところは、二つの主題が共存するのではなく、一つの主題として融合しているところにあります。「いたずら群」と「精神群」における表象には、少女の生きざまと民主化・独立運動の双方からの意味が重なり合う形で投影されています。

この二重の表象の関係を、まづはかんたんに表に整理すると、次のようになります。

少女の生きざま民主化・独立
いたずら群男性社会から与えられた少女性デモやヴァンダリズム
精神群自我をもった思考する自己運動の理想である民主・民族国家

順を追って、もうすこし註釈を加えていきましょう。

いたずら群は、少女の生きざまという文脈においては、男性から与えられた少女性を表していると読み取れます。それは、かわいらくして、ふわふわとしたもので、そして男性による恋愛の対象です。それは少女の人生の一部を成すものであり、そうした意味では、この少女性を否定することは、少女たちにとっては自己否定となってしまうものです。これを否定することは、ウーマニズムの文脈からも当然正統化されないものです。本作公開時にはまだ第二次フェミニズムが主流であり、ウーマニズムは登場していませんでしたが、本作はウーマニズムのパイオニア——といってしまうと少し逸脱的になってしまうかもしれませんが、ウーマニズムを基礎付けるナイーヴな感覚を十分に表現したものと言えるでしょう。ただし、それは当然、無条件に肯定できるものではありません。男性から対象化された性として、少女性をまとった少女は主体性を剥奪されており、正統な方法で社会に関わることができません。「社員の花嫁候補」であった昭和の女性社員が、会社の事業のための価値創造ではなく、お茶くみのために使役されていたのと同様に、少女たちは社会においてなにかを形づくる術を持たず、いたずらや破壊をすることによってしか、社会に影響を及ぼし、自己の存在を確かめることができないのです。

同時に、彼女たちのいたずらやヴァンダリズムは、違法なデモの限界をも表しています。専制国家において、政治活動は違法化されており、選挙や市民オンブズマンといった正統で実効的な方法で行うことはできません。それは、市民の意思表示として道路や広場を占拠するデモや、抽象化された絵画など、権力者たちが無視しようと思えば容易にできてしまうようなものばかりなのです。もちろん、放火のような暴力を行使することもできますが、それは軍隊を動員した国家権力による弾圧の力に比べれば、些細で無力なものです。

精神群では一方で、彼女たちは思考する自我をもった存在として描かれます。自分たちは何者なのか、人生に意味はあるのか、存在するということはどういうことなのか、彼女たちはそうした哲学的な問いを交わしあい、知恵の実として知られるりんごを齧ります。しかしそのりんごは、イヴが食べたものとはおそらく異なり、青りんごです。彼女たちはまだ若く青々としたりんごを食べても、自分が何者であるか、何を為すべきなのかを知っているような強固な自己をもつことができません。いたずらから帰還したあとは、「家がいちばん」と言いつつも、結局なにかおもしろいものをもとめてどこかにいたずらへと繰り出してしまう、そうした反照が繰り返されています。

精神群が民主化・独立運動にたいしてもつ意味はやや不明瞭です。ただ、それが精神的であり、かつ混迷するものであることを踏まえれば、民主化・独立運動が結実したあとの青写真ということができるかもしれません。独立が達成されれば、チェコ人たちは自らの思考を主権の行使という形で結実させ、民衆によるコントロールのもとによる国家運営という仕事をしていかなければなりません。しかし、ソ連の衰退も冷戦の集結も全く見通せなかった1960年代において、それがどんな姿で実現できるものなのか、ドプチェクのいう「人間の顔をした社会主義」とはどんなものなのか、表現の自由を認めつつ共産党も存続することはありうるのか、抵抗やヴァンダリズムから、そうした理想へのヒントを得ることはできません。現実のチェコは、幸いにして、戦間期の民主政の記憶に支えられ、そうした道を歩むことはありませんでしたが、旧ソ連の諸国の相当数が、共産党が瓦解したあとも、民主制の安定化に苦労し、結局汚職や先制の道を歩んでしまっている現実もまた、こうした困難さを体現しているでしょう。チェコ人たちは、デモとは別に、思考を求められていました。

精神性の優位と展開

本作の終盤では、精神群といたずら群の反復からの脱却への萌芽が見られます。そしてこの精神性の優位は、映像の表現技法によってすでに予告されていました。

本作が公開された1960年代、日本ではテレビのカラー放送が始まるなど、カラーフォルムは最新のいきいきとした表現手法でした。私はそのころまだ生きていなかったので、当時のことは想像するしかありませんが、カラー映像が現実的な迫力をもっていたのに対し、それが登場したあと、モノクロのフィルムは、単に劣ったものであるというよりは、テレビカメラがあってもアニメもあるような、ひとつの芝居らしい表現というかたちで知覚されていたのではないかと思います。いたずら群がモノクロで表現されていることもまた、偽名を使い、他者からもとめられた少女性をお芝居のように着ているという感覚を表したものなのでしょう。しかし、いきいきとした表現技法であったカラーフィルムを、現実のプラハの風景ではなく、精神世界の表現として使ったことは、芝居のような現実よりも、思考する自己こそが現実であり、本質であるという、精神の優位を表したものだったに違いありません。

おそらくそれは、単に本作の希望であったのみならず、本作の信念でもあったことでしょう。本作は、戦闘機による爆撃の映像で始まり、同じ爆撃の映像で終わります。男性・ソ連の理性的ぶった振る舞いは、結局非人間的な帰結を生むのです。それよりも、精神・思想においてきちんと現実に向き合うことこそに価値と本質があるのです。

終盤が近づくにつれ、彼女たちは、精神の自立と理想がどんなものであるかわからなくても、流れていく人生の中で、「わたしはいる」というパスカル的な自己を発見します。

物語の最後に、彼女たちは初めて、カラーフィルムの中でいたずらをします。権力を想起させる豪華な食事をめちゃくちゃにするのです。それは、少女性という芝居を脱いでなお、彼女たちが抵抗のできる主体であることを表しています。彼女たちは今後、思い悩みながら、常に思考しつづけることで、押し付けられた少女性とソ連影響下の専制から、二重の意味で主体性を恢復しようと試みるのです。

最後の破壊のあと、彼女たちは掃除を始めます。しかし、「きれいにしなきゃ」という言葉はややうわ言のようで、彼女たちが行った復元は、ほとんど復元になっていません。そして最後に彼女たちは、自らが壊したシャンデリアの落下の下敷きとなってしまうのです。

これは、女性の、そしてチェコの主体性恢復の挫折を示唆しているのでしょうか。その意図はわかりません。ただ、この映画はまだプラハの春の前であり、ややメタ的になってしまいますが、そういう意味では、あくまで困難さの象徴という程度に受け取っておくのがよいのではないかな、と思います。

個人的な感覚ですが、「きれいにしなきゃ」と繰り返す彼女たちは、就活中の大学生に少し似ているように思いました。就活中の大学生は、自ら責任を持ってお金を稼ぎ、人生を生きていくということに対し、真面目に向き合うことを余儀なくされています。しかし、まだ実際に働いたことはなく、会社での生活をありありと思い描くこともできないことから、そうした意識が先行するものの、どうにもうまく行っていないようです。依然としてややふざけたように弥縫を繰り返す彼女たちもまた、現実に民主的で民族的な国家運営を目指し始めた当時のチェコ人たちのあり方を描いたものだったのではないでしょうか。

二重性:チェコスロヴァキアの自己定義

この映画の最大の特徴は、やはり相異なる概念である少女の生きざまと民主・独立国家を、ひとつの表象を用いて表したところだと思います。そもそも本作は、ストーリーではなく映像表現による映画ですから、この象徴主義は、本作を表す中心的な存在となるものです。

彼女たちは劇中、「美しい私たちの祖国ボヘミア」と口にします。音楽や芸術を愛する、実用性より感性の国としてのチェコ——スメタナ・ミュシャ以来のチェコ人たちの自己定義を、本作もまた継承しているようです。そしてそれは、官僚性やプラグマティズムを男性、ドイツ・オーストリア・ソ連が担っていた背景においてこそ、もっとも純粋に表れることのできるものでした。本作の二重の表象は、そうしたチェコの時代背景ならではのものと言えます。

一方で、最後に彼女たちが呟くうわ言——労働による建設的な人生とその帰結としての幸福は、やや共産主義教育的であるようにも響きます。中盤の「いたずら群」では、彼女たちのひとりは、少女性を幸福であると認めるのを明確に拒否しました。終盤では、迷いつつも、明らかな拒否はしていません。こうした標語的な幸福もまた芝居がかったものであるとの疑念を抱きつつも、それを一旦受容しようかという逡巡が見られます。独立国家を現実に運営していくとき、かつてのボヘミア民族主義の甘美な純粋さ——本作を成立させる要因は、やや困難で、相克・止揚を経るべきものであると示唆しているようでもあるのです。

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