les impressions et les expressions

卒論(要旨・本文)

le mémoire de licence (abstrait et texte)
écrit : 15 jan 2025
téléchargé : 30 mar 2025

本稿は私の卒業論文をそのまま転載するものです。なお振り返りはつぎの記事でしています。本サイトはgithub pagesを利用しており、このページが卒論の提出より後にアップロードされていることは、こちらから確認できます。

タイトル

存在の政治の親密圏的性質とその価値 ――集団的解釈資源構築によるマイノリティ性の解消のために――

要旨

同性婚の法制化を始めとして、マイノリティのイシューの中には、権利の問題であるという認識が社会的に確立されているにも拘らず、その実現のための議論が議会において後回しにされているものが存在する。フィリップス(Phillips 1995)は、議会が平等を実現するためにはマイノリティが代表として議会に存在することが重要であるとする、存在の政治という代表観を確立した。本稿は、議論が後回しにされるという議会におけるマイノリティの不利益の解決に存在の政治が貢献するためには、議会がどのようなモードに従って議論を行っていることが条件となるかについて検討する。本稿はこれに対し、議会が親密圏的コミュニケーションを取ることにより、集団的な解釈資源の構築を行うことがその条件となるという解を提示する。マイノリティのイシューの後回しは、それがどれほど重要なイシューであるかについての正当性の訴えを社会に投げかけ、納得させる解釈資源をマイノリティが有していないことに端を発する。これを解決するためには、社会全体を代表する存在としての議会で集団的にこうした解釈資源を構築することが必要である。解釈資源が不足する環境下でマイノリティの視座を正当な主張として議論に反映し、集団的解釈資源の構築を助けるようなコミュニケーションのモードとは、個人の経験のストーリーテリングである。従来、議会においては公共圏的なコミュニケーションを取ることが前提視されてきた。しかし、マイノリティが自らが議会に存在することをストーリーテリングという形で議論に結び付けられるのは、議会が親密圏的コミュニケーションのモードを取っているときである。なぜなら、第一に、公共圏的コミュニケーションにおいては、個人の経験は公的なものを議論するための材料として扱われるために、自らの経験を公的な主張に結びつける圧力が働くのに対して、個人の生に注目がなされる親密圏的空間においては、ひとりひとりの経験を聞き、集団的に解釈することが、それ自体目的として扱われるからである。第二に、親密圏的コミュニケーションでは、参加者の対等性を維持するために、自らの経験やそれにもとづく主張を話す機会を順番に与えることがある程度意識されるからである。なお、親密圏的コミュニケーションは、現実の議会において行われている非公開の折衝とは異なるものである。非公開の折衝は、有権者の利益を代表者がそのまま議会に反映させる「アイデアの政治」が共約不可能性の困難に陥った際に、これを権威的に解決する手段として機能しているに過ぎないからである。議会が親密圏的コミュニケーションを取るべきなのは、あくまでも解釈資源を集団的に構築する機会に限られることに留意すべきである。

本文

はじめに

マイノリティの政治的境遇を改善する足並みは遅い。例えば、同性愛に対する差別が正当化されないこと、少なくともそのような考えの存在は、現代の社会では広く浸透している。もちろん、今日でも、マイクロアグレッションやヘイトスピーチは確かに存在する。しかし、こうした言説が問題であることもまた社会的に一定の理解が進んでおり、その点で、差別が問題化されていなかった、あるいは正当化されていた時代とは状況が異なる。このように、社会の漸進的改善はある程度進んでいるといえよう。しかしながら、裁判所におけるたびたびの違憲判決にも拘らず、日本の議会は同性婚の法制化を遅々として推し進めない。

選挙における争点の大きなウエイトは、経済や安全保障といった、省庁と結びついた既存のアジェンダに占められている。そしてそのことは、必ずしもマジョリティの関心と結びついているとも限らない。結果として、政治は、これらのことを自己の問題として内面化する政治的社会化を経験していない人びとにとっては、わかりにくく生活に関わりのないものと感じられている。そして、選挙のあとの議会においてもこうした状況は続いている。

アクター分析の立場からは、これらの現状の原因には、日本の各政党の支持者の傾向やロビー活動を行う団体の存在など、様々な要因を分析することができるだろう。一方で、こうした社会全体の漸進的変化が議会の活動に反映されていない現実は、議会の設計をめぐる問題に見出すべき部分もある。

マイノリティは過小に代表されている。例えば、異性愛以外の性的志向を持つ人は、国立社会保障・人口問題研究所が2023年に実施した「家族と性と多様性にかんする全国アンケート」によれば、8.7%いる(釜野さおり et al. 2024)。しかし、国会議員の中では、公表している人に限るものの、2024年11月現在の現職では2人(LGBT政策情報センター2024)と、議員定数の0.3%に満たない。異性愛以外の性的思考をもつひとは、調査の誤差や公表しない議員の可能性を考慮してもなお、明らかに少ないといえる。さらに、性的マイノリティの議員の存在が、議会において性的マイノリティのイシューに時間を割いて真剣に検討することに繋がっているか、という点についてもまた疑いの余地があり、何がそれを妨げているかは検討されなければならない。

本稿の問題意識は、マイノリティのイシューの中に、イシューとして確立されているにも拘らず、議会においてそれが十分に顧みられておらず、平等を志向する改革が進展しないものが存在することにある。このような議会がボトルネックとなっている状況を打破するためのフレーミングとして、本稿はフィリップス(Phillips 1995)の存在の政治という概念に注目する。存在の政治は可能性に富んだアプローチであるが、この概念がどのような議会を実現することで、こうしたボトルネックを打破することができるのかは十分に検討されてこなかった。

本稿ではまず第1章において、存在の政治をめぐる先行研究の状況を紹介し、先行研究に欠けている点として、存在の政治に基づく議会がどのようなものであるべきかについての理論化が不十分であることを指摘する。第2章では、そうした存在の政治に基づく自律的議員による議会が、まさに本稿が問題とする議会がボトルネックとなる状況を解決する手段となることを、フリッカー(Fricker 2007=2023)の解釈資源という概念を援用して論証する。第3章では、まず、現状の議会において解釈資源の構築がなされず、むしろ不正義を再生産する状況が続いていることの原因が、議会におけるコミュニケーションとは公共圏的なものであるという想定にあることを述べる。さらに、それに対する概念である親密圏的コミュニケーションが、マイノリティのイシューに対する存在の政治の貢献を助けることを二点の理由から主張する。最後に、第4章では、本稿に対する批判として現実の議会における水面下の折衝の問題性の指摘を想定する。こうした批判への応答から、本稿が主張する存在の政治の発展としての親密圏的議会の有効性は解釈資源の構築に限られるということが明らかになる。その結果、デモクラシーにおいて実現すべきさまざまな価値のうち、親密圏における存在の政治がどのような場面で貢献を果たし得るものであるかもまたより明確なものとなる。

第1章 存在の政治と先行研究の動向

フィリップス(Phillips 1995)の『存在の政治』は、マイノリティの議員の存在を重要視することで、クォータ制を始めとする、マイノリティの議員の増加を促進する制度を正当化した著作である。フィリップスの重要な貢献は、存在の政治(politics of presence)とアイデアの政治(politics of ideas)という2つの概念を提唱することで、もっぱら後者の立場を前提視してきた従来の民主主義論を相対化したことにある。アイデアの政治とは、国民の多様な利益や意見がそのまま議会に反映されることを重視する代表観である。一方、存在の政治とは、国民の多様なアイデンティティが多様な代表によって議会に反映されることを重視する代表観を指す(Phillips 1995: 1-2)。女性に対するクォータ制は、存在の政治の一例である。ただし、ここでは女性の議員は女性に共通の利益を代表する存在とは考えられていない。むしろ、仮に女性全員の間で共通する利益が存在しなかったとしても、なお複数の女性たちの経験に共通するジェンダー化された不利益があることを発見し、その原因たる社会構造に対処することこそが存在の政治である(Phillips 1995: 67-8)。このことを一般化して言えば、存在の政治とは、議員が自らに固有の経験を議会において解釈する中で、ある社会構造によって複数の議員が何等かの点において共通の立場に立っていることを発見し、そこでその原因となる社会構造に対処していくような政治であるといえる。なお、フィリップスは存在の政治をアイデアの政治に勝るものとは捉えていない。むしろ彼女は、両者を二律背反的にではなく、両立させるべきだと考えている(Phillips 1995: 24-25)。一方で、アイデアの政治のみを追求する現在の議会観にはあくまで不足があり、存在の政治は依然として考慮されなければならない。

フィリップスは多くの論拠を挙げて存在の政治の必要性を論証するが、特筆すべきものは次の2点に集約される。第一に、マイノリティの議員の存在は議会の正統性を高める。国民は多様なアイデンティティをもっている。それが特定の属性の集団のみによって代表されている場合、仮にマイノリティの利益が実現されたとしても、それはマジョリティの関心と配慮の結果でしかない。このことは、統治者と被治者の一致というデモクラシーの理念と、近代国家においてそれを実現する手段である代表制の理念を損なう。第二に、マイノリティの議員の経験は、マイノリティのイシューへのよりよい解決に貢献する。公的なものに対するマイノリティの利益は、抑圧の結果として私的なものとして潜在化されており、明らかではない。潜在的な利益は、マイノリティによって正当化されることも困難であるが、マジョリティには発見すらできないものさえある。こうした利益を適切に政治的な回路に繋げていくために、マイノリティの政治参加は必要である(Phillips 1995: 39-45)。

存在の政治には次の3つのような問題点が指摘されている。第一に、フィリップスが当初の著作(Phillips 1995: 102)において既に認めている通り、存在の政治はアカウンタビリティと対立的である。アイデアの政治の想定によれば、代表は有権者の意見をそのまま反映すべきである。この義務はアカウンタビリティの一部を構成する。自らの特殊な経験ゆえの独自の行動を取ることは、選挙で示される政党の公約からの逸脱を意味するからである。しかし、当選前にすでに明らかであった利益をそのまま反映するためだけであれば、マイノリティの利益はマジョリティによって実現されようとマイノリティによって実現されようと変わらないことになってしまう。存在の政治が独自の貢献を果たすのは、議員が政党の政策を離れ、自らに固有の経験を話したり、あるいは他者の話を聞いて意見を変容させる主体性を発揮したりするとき、すなわち自律的(autonomous)であるときである。それゆえ、代表としての正統性を高めるアカウンタビリティと、代表としてそこに存在することの意味を高める自律性は、対立関係にある。

第二の問題は、議員の経験の特殊性を想定することは、本質主義的な見方、すなわち、ある属性に固有の傾向があることを前提視することで、却ってその属性の人びとが他の人びとと市民として等しい存在であるという理念を損なってしまうような見方であるということである。これは差異の政治の議論がしばしば被る批判であり、存在の政治もまた差異の政治の議論の一種であるために、同じく被っているものである。フィリップスがまとめる通り、差異の政治の論者たちは、ヤングやサルトルのいう集列性やヴィトゲンシュタインのいう家族的類似といった現象学の概念を援用することで本質主義の問題を解決できると主張している(Phillips 2020: 179-81)。アイデンティティは生来の単一で固定的なものではなく、複数的で流動的なものである。現象学の概念が援用されたことで、このことはより理論的に説明されるようになり、ここから多くの発展的議論がもたらされた。本稿もこうした議論と軌を一にする。

こうした議論を行っている論者の一人にアセンバウム(Asenbaum 2023: 47-9)がいる。彼との対談において、フィリップスは、議員の自律性を過度に重視せず、アカウンタビリティとのバランスを保たなければ、代表としての性質は損なわれてしまうと述べている(Phillips and Asenbaum 2023: 84)。しかし、本稿は依然として、これらの発展的議論が自律性とアカウンタビリティの対立という問題への止揚となり得ると考える。

有権者と代表の関係を、代表がある選挙で有権者に選ばれるという点にのみ見出している限りは、確かにアイデンティティと自律性は対立的なものであるように思われる。しかし、それはある一つのアイデンティティをどのように代表するかということについてのみ考えているからである。アイデンティティが流動的で複数的なものであると認める限りは、当選後の議員から有権者への働きかけや、次回の選挙での有権者から候補者へのフィードバックといった双方向的な交流を想定することは必要である。アイデンティティが時間とともに多様に移り変わってしまう以上は、有権者と代表の関係は継続的で相互的なダイナミックなものとなるのだ(Saward 2014、Cohen 2023)。このように、第二の問題への差異の政治の論者による再応答として現れた、流動的で複数的なアイデンティティ像は、アカウンタビリティと自律性の対立関係という第一の問題をも克服することができる。

存在の政治の第三の問題は、平等を実現するための方法としての存在の政治の有効性である。存在の政治は、単に議会における象徴的な包摂を意味するだけではなく、マイノリティの議員の活動により、物質的な平等を達成することも目的としている。この物質的平等の達成が実際に起こっているかについては、多くの実証的研究が行われてきた。フィリップスはその後、そうした実証研究の結果が芳しくないことを理由に、存在の政治が物質的平等に果たす貢献についての議論を十分な検討なく後退させ、マイノリティの代表の存在が包摂に対して果たす象徴的な意義に重点を置くようになっている(Phillips 2012: 515-7)。しかし、こうした研究が対象としている現実の議会は、アイデアの政治的価値観がつよく残る議会において、マイノリティの議員を数的に増やしているだけであるため、マイノリティの議員が自律的に物質的平等を実現できるような環境が整えられているとはいえない。フィリップス自身も、当初の著作において、自律性が保障されないクォータでは却って、ある集団の代表はその集団に対して社会が抱いている偏見の通りに振舞ってしまうことを指摘している(Phillips 1995: 78-9)。また、実証研究の中にも、政党の役割が強い議会においては女性が議会にいることの役割は限定的なものとなってしまうとの指摘もある(Junqueira and Silva 2024)。それゆえ、こうした実証研究から直ちに存在の政治の議論が否定できるとはいえない。むしろこのことから、存在の政治がマイノリティを包摂する作用を果たす環境とは、議会における話し合いがどのような理想を念頭に行われる環境であるのかについて、理論的な検証が必要であるといえる。本稿が存在の政治に親密圏的性質が必要であることを論証するのはこのためである。

存在の政治という概念は大きな反響を受けたために、存在の政治のアイデアを援用しつつ、本稿の主題である、存在の政治と整合的な議会の環境とはどのようなものであるについて示唆を与える研究がいくつか存在する。ジディアス(Xydias 2023: 1240-1)は、マイノリティ集団の内部にも多様性があり、代表するのは難しいという問題が、マイノリティの議員同士で経験の共有を行うことで解決され、マイノリティの議員たちが物質的平等を実現することにつながると主張する。また、ジャンニ(Gianni 2017: 89-94)は、マイノリティの自己実現の権利を促進するような政治的認知について、国家が中立的立場を取るべきであるとの考えを批判し、マイノリティの政治的資源の構築の援助が必要であると主張しつつ、その解決策の一つとして存在の政治を援用する。本稿はこうした研究と軌を一にするものである。一方、これらの研究は存在の政治そのものを焦点にしているわけではなく、あくまで著名で親和的なアイデアの一つとして補足的に列挙するにとどまっているため、存在の政治という見方そのものの可能性を検討するものではない。そこで、存在の政治を起点にしたデモクラシーの制度の構想をすることで、親密圏的空間という存在の政治の十分に探究されていない側面への理解を深め、存在の政治がもつマイノリティの包摂への作用をよりよく捉えることが本稿の役割である。

第2章 集団的な解釈資源構築:存在の政治による議会が抑圧の解消に対し果たす価値

マイノリティの包摂と平等の実現のための諸制度のうち、存在の政治が特に果たすことのできるような貢献は、議会内部の議論と意思決定のプロセスにおけるものである。なぜなら、存在の政治は代表制についてのパラダイムチェンジの主張であり、代表の選出方法(Phillips 1995: 4、5章)と代表の議会内の活動のしかたとその正統性(Phillips 1995: 6章)について示唆を与えるものだからである。本稿の関心はそのうち後者である。そこで本章では、第一に、議会における議論と意思決定の仕組みにおいて生じているマイノリティの不利益の原因にはどのようなものがあるか議論する。続いて、議論の補強として、そうした原因が、オルタナティブなチャネルではなく、依然として議会の改善を通じて解決されるべき理由を論証する。

マイノリティの問題の中には、今日では社会的イシューとして捉えられているものも少なくない。しかし、議会においては、そうした問題は後回しにされ、解決の日を見ない。有権者は、マイノリティのイシューの存在を認識しながら、選挙の際に、必ずしもそうした問題に基づいて投票先を決めているわけではないようである(Tronto 2013: xii-xiii=2023: xi)。また、政党は、政策パッケージの中にマイノリティのイシューの問題を含めていたとしても、必ずしも積極的にその問題を議論しない。それは、マイノリティのイシューが、しばしば最も重視されている経済の問題と比べて、依然としてマイナーな存在であると認知されているからである。たしかに、マイノリティに市民として平等な市民権があることは社会的に広く認められている。しかし、権利が保障されたとしても、その権利によって実現できるような幸福を国家が援助するリソースは有限であり、どのような主張を優先して取り上げるかは別問題である。マイノリティのイシューは、最低限の権利の問題としては認識されているが、そのイシューに対して社会がどれほどの優先順位を与えて注目するかという次元においては、経済といった伝統的問題に対して敗れている。そのことに起因する後回しこそが、議会の意思決定によってもたらされているマイノリティの不利益である。

後回しという不利益の原因は、マイノリティ自身の責任ではなく、不平等な制度にある。ジャンニ(Gianni 2017: 92)が政治的資源の不足を原因と指摘したのは正しい。そして、この政治的資源の不足は、マイノリティをマイノリティたらしめているものそのものである。マイノリティは、数的に少ない人びとのことではない。女性のように、全人口の半数近くを占めていてもマイノリティに分類される人びともいる。一方で、(イギリスにおいて)目が青くて髪が赤い人(Phillips 1995: 46)や、(日本において)耳垢が湿っている人のように、数的には少ない一方、マイノリティとは通常見なされない人びともいる。このことからわかる通り、マイノリティとは、社会構造上の原因により、政治参加の権利の上では平等な状態にあったとしても、依然として不利な立場にいる人びとのことである。

ヤングはこの社会構造上の原因を抑圧と呼び、そこには搾取、周辺化、無力化、文化帝国主義、暴力の5つの側面があると分析した(Young 1990: 48-63=2020: 83-86)。中でも、議会で行われる営みである議論に関わるものとしては、文化帝国主義が重要である。文化帝国主義とは、物質や権力ではなく、社会的イメージやステレオタイプの働きにより、一つの社会集団の経験が普遍化されることを指す。この結果、マイノリティは、自らの苦しみから来る感情を、政治的な問題として適切に解釈することができない。これこそが、ジャンニが指摘する政治的資源のうち、特に議会における議論について重要となるものである。フリッカー(Fricker 2007: 148-52=2023: 189-97)はこれを解釈的不正義と呼ぶ。人びとが自らの経験とそれに由来する感情や要求を倫理的な主張として正当化できるようになるためには、似たような経験が倫理的に正当化されてきた蓄積が必要である。フリッカーはこれを解釈資源と呼ぶ。解釈的不正義は、マイノリティが自らの利益を政治的チャネルに繋げられない大きな原因の一つである。フリッカーの用語に従えば、マイノリティに解釈資源が不足していることに伴う、マイノリティのイシューの後回しこそが、議会における議論と意思決定のプロセスにおけるマイノリティの不利益であるということができる。

解釈資源の構築に資する議論のあり方とはどのようなものだろうか。ヤングは、熟議デモクラシーの拡張として、話し合いにおいて多様なコミュニケーションのモードを認めることを主張し、そのようなデモクラシーのあり方をコミュニケーション的デモクラシー(communicative democracy)と名付ける(Young 1997: 68-9)。そうした多様なモードの一つであるストーリーテリング(story telling)は、解釈資源が不足している際に特に有効な貢献を果たすだろう。

ヤングの著作にはしばしば彼女の個人的経験についての逸話が登場する。ストーリーテリングの効果について考えるための助けとして、こうした逸話の効果についてのファーガソン(Ferguson 2009: 62-7)の分析を援用しよう。彼女はこれらの逸話の役割の一つに次のようなものがあるとまとめる。読者は、これらの逸話を読むことで、自らがもつ類似の経験を想起する。ファーガソンはこの作用を共振(resonance)と呼ぶ。共振は、読者が各々の経験の背景にある構造に気づくことを助ける。コミュニケーション的デモクラシーにおけるストーリーテリングにも、同様の効果を見出すことができる。個人的経験がさまざまな人に共振をもたらす過程は、それ自体は既存の解釈資源を要求することなしに、集団として新たに解釈資源の構築を行うことを強く促進する。

こうした後回しを解消するための解釈資源の構築はあくまで議会の活動によって行われるべきである。解釈資源の構築は、ストーリーテリングに容易に共振を起こしてくれるような、同質な集団の中においてのみ行えば済むわけではない。ファーガソンが指摘するように、共振には二つの価値がある。一つは共振自体の内在的価値であり、もう一つは、不協和音(dissonance)を聞き入れるような態度になるよう人びとの準備を促すことである(Ferguson 2009: 67-8)。ストーリーテリングに共振しないような人が、自らの考えを相対化し、どうして共振しないのかをきちんと評価しなければ、話し手の問題は社会全体の問題ではなく、一部の人びとの問題としてとどまってしまう。ヤングが、問題を話し合うような公共圏は、複数あるのではなく、一つであるべきである(Young 2000: 167-73)と主張したのはこの点で正しい。ジディアス(Xydias 2023)は、マイノリティの議員同士の経験の共有を評価したが、同じ属性のマイノリティ同士のみで経験を共有するだけでは、共振の作用は多くなるものの、不協和音の作用は少なくなってしまう。重要なのはむしろ不協和音の方である。ある問題がどれくらい優先されるべき話題であるか社会を納得させるための解釈資源は、社会全体の代表である議会全体が構築すべきである。そうすれば、マイノリティのイシューが後回しにされるという不利益は解消されるだろう。そして、議会が社会全体の代表であることを考えれば、この議会全体としての解釈資源の構築こそがマイノリティの不利益の解消のための議会ならではの役割なのである。

第3章 親密圏とその価値:集団的解釈資源構築に寄与する議会の環境

議会は公的なものに関わるから、当然に公共圏に属すると考えられてきた。しかし、共振と不協和音を通じた解釈資源の集団的構築という価値を議会において追求することは、公共圏的な話し合いにおいては十分に達成することができない。それゆえ解釈資源の集団的構築を行う議会は親密圏的性質を帯びることとなる。言い換えれば、公共圏的な議会の想定がマイノリティのイシューに対し後回しという不利益を生じさせる原因になっている。公共圏的空間と比べての親密圏的空間の有利は2点の理由から明らかになる。一つは、公共圏がなし得る、マイノリティの現われを抑制するという害が起こらないことによるものであり、もう一つは、親密圏がマイノリティのストーリーテリングを促進することによるものである。

3.1 親密圏の価値その1:現われを抑制する圧力の不在

集団的な解釈資源の構築のためには、第2章で述べたように、ストーリーテリングを通じてマイノリティが自己表現をする機会が必要である。公共圏的空間の第一の問題は、それが解釈資源の不足している環境において、こうしたマイノリティの自己表現を抑制する効果をもつことにある。

公共圏とは、公共的なものを目的とする空間である。公共圏における人びとの関わりにおいては、それゆえ、仮に個人的なことに関心が向けられたとしても、それは公共的なものに資するための手段として使われるに過ぎない。こうした公共的な人びとの関わりの最たる例はアゴーンである。

アーレントは、公共圏が人びとの現われの空間となり、個人が画一性に抗して現われることで、その光輝を競うアゴーンが可能になり、画一性を迫る表象の作用から逃れることができると考えた。アーレントの想定では、画一性を迫る表象の作用から逃れるために、個人が主体的にアゴーンに参加する姿が描かれている。たしかにアゴーンは、それが対等な参加者の中で繰り返し行われる限り、決定的な勝者を作らない点で、人びとの現われを容易にする作用をもつ。しかし、参加者が対等でないとき、勝者の交替は起こりにくくなり、アゴーンは表象の作用の一部として、敗者の現われを妨げてしまう。

より鮮明な議論を行うために、アセンバウム(Asenbaum 2023: 47-58、68-9、75、86-8)の主張について検討してみよう。アセンバウムは、アイデンティティが複数的と流動的なものであるという前提までを本稿と共有しつつ、マイノリティの包摂を行うための方法についてのみ、本稿とは対照的に、むしろアゴーンによるべきであると考える論者である。それゆえ、アセンバウムの主張を検討することで、アゴーンに固有の問題点を考えることができる。アセンバウムは、存在の政治を評価しつつ、それをさらに発展させた生成の政治(politics of becoming)を提唱する。生成の政治は、人びとが固定的で偏見に満ちたアイデンティティから解放され、自由に自己を変容させられる空間において議論を行う政治の構想である。そのための条件の一つとして、アセンバウムは、人びとが匿名で議論に参加することを挙げる。匿名空間では、自らの属性によって他者から偏見を受けたり、自分自身に偏見を課してしまったりすることがなくなるからである。偏見から自由になった人びとは、闊達に自らの意見や視座を戦わせる。このようなアゴーンを通じて、自らの意見や視座を表現するとともに、他者の意見や視座に耳を傾けることで、自由なアイデンティティの変容が可能となり、人びとは公的に考えることができるのである。しかしながら、以上のようなアセンバウムの考えには問題がある。その問題は、マイノリティがマジョリティと完全に対等な立場でアゴーンに参加し、共に自己変容を実現できると考えたことである。ファーガソンは、ニーチェ的な自己変容が可能であると考えること、すなわち、社会構造の不正義に注目せずとも、個人は自由(unfettered)な自己変容を果たすことができると考えることは、非現実的な主意主義の称揚であると難ずる。そうなると、また社会構造の中の特定の位置にいる主体としての個人に対し抑圧がもたらす影響は矮小化されてしまうというのである(Ferguson 2023: 52-3)。マイノリティはたしかに匿名性によって自らのアイデンティティに由来して受ける偏見には対処できるが、解釈資源の不足という面では、依然としてマジョリティと比して不利な立場に立たされている。そうした場では、マイノリティの現われは難しく、却ってマイノリティの参加が、マジョリティの視座が不偏のものであることにお墨付きを与える装置として機能してしまう可能性もある。

アゴーン的なものを念頭に置く限りは、理由に基づく議論でさえも、解釈的不正義を強化してしまう可能性をもっている。理由にもとづく議論は、理にかなった結論を目的として、個人の社会的経験を妥当性の観点から序列づける。社会的経験に基づく視座のうち、理にかなっているとされたものは普遍的な価値を与える一方、そうでないものには、妥当でないものという烙印を押し、妥当とされた視座に従わせてしまう。そして、既に解釈資源を構築しているマジョリティの視座は、妥当であると見做されやすい。理由に基づく議論に従って行われた決定に同意をすると、妥当であると見做された視座が絶対視され、視座の多様性は否定されてしまう。

これらの問題点の原因はアゴーンそのものの性質にある。アゴーンは、すなわち競争であるため、なにか一つのものを目指し、それをよりよく達成できたものを勝者とするものである。議会におけるアゴーンが目指すところは公的なものであり、それをよりよく達成できるとは、自らの理由づけを公的なものであると周囲に承認させることである。アゴーン的な環境においては、マイノリティは自らの経験にもとづく利益が普遍的なものであることを自らの責任で周囲に納得させなければならない。それができなければ、マイノリティの経験は公的なことを議論する場に相応しくないものと見做されてしまうのである。このように、人びとの間に共通の公的なものがあり、それを目指す場にひとりひとりが参加するという公共圏的な想定自体が、すでに解釈資源をもっている人の視座や理由づけが公的なものとされ、そうでない人のものが公的に見て妥当ではないものとされる解釈的不正義を助長してしまう。

一方親密圏とは、齋藤(2008)の定義によれば、「具体的な他者の生への配慮・関心を媒体とするある程度持続的な関係性」(齋藤2008: 196)がある場である。親密圏における人びとの関わりの目的は、参加する人びとの間にある公的なものではなく、参加する人ひとりひとりの固有な生にある。本稿が主張する、議会を通じたマイノリティの主張の適切な反映は、まさにこの親密圏を通じた人びとの関わりのプロセスによって実現される。前章で主張した通り、マイノリティのイシューが政治的チャネルから疎外されている理由は、マジョリティも含めた社会全体における解釈資源構築のプロセスを経ていないからである。そして、議会を通じたマイノリティの包摂とは、マイノリティの視座を解釈する資源の構築を、マジョリティも含めた議会全体で行うことである。ここで、マイノリティの視座は、集団として解釈すべき目標であって、結論を得るための手段ではない。すなわち、公的なもののためにマジョリティとマイノリティの視座を利用してその有用さを競争させる公共圏とは反対に、ひとりひとりの視座を公的なものと見做すためにすべての参加者がコミュニケーションを行うことこそが親密圏的な議論のモードである。このように、マイノリティが議会に存在することにより、マイノリティがよりよく包摂されるのは、その議会が親密圏的性質を帯びているときである。

齋藤(2008)は、公的な空間における現われの空間が異他的なものを排する危険性をもった場所である一方、私的な空間における現われの空間では人々が自らの意見や行為において他者の耳目に触れることができるために、親密圏が「完全な暗闇(obscurity)、すなわち社会的黙殺や歴史的忘却を妨げる条件となることがある」(齋藤2008: 203-5)と述べている。その理由は、親密圏においては、自らの視座の妥当性について周囲を説得することへの圧力に晒されることがないことにある。それゆえに、解釈資源が不十分な環境下にあるマイノリティにとって、自らの視座を表出させることはより容易になる。こうした視座の表出は解釈資源の構築のプロセスの出発点である。これは、フィリップスが存在の政治の利点として掲げた、未だ表出していないマイノリティの意見を顕わにするという目的に適うものであり、解釈資源が不足している状況下で、新たに解釈資源を構築するための条件である。

以上の議論をよりわかりやすいものとするために、本稿冒頭で例示した同性婚をめぐる問題の一つについて、親密圏的空間における現われの面から考えてみよう。同性愛者やパンセクシャルの存在は非常に古くから知られていた。しかし、同性婚は比較的今日的イシューであるかのように扱われている。同性パートナーをもつ人はかつて社会からの逸脱として扱われており、それゆえ同性パートナーをもつ人の婚姻は公共的な問題ではなく、逸脱者と見做された人の個人的な問題だったからである。しかし、そのような時代に、同性パートナーをもつ人が異性愛者である友人の結婚式に招待されたとき、感じるところは何もなかっただろうか。同性パートナーとのもつ人が自らの性的指向を異性愛者の友人にも打ち明けることができていたとしたら、異性愛者の友人は少なくとも当人を前にして敢えてその指向を非難することには相応の気まずさを感じただろうし、結婚式の招待状を書く際にも、なにか思うところがあったであろう。このように、親密圏的空間では、相手の人格に配慮することは、一般的に正しいとされていることよりもしばしば重要であるために、解釈資源がなくとも、問題が顕在化しやすいのである。親密圏的議会においては、例えば同性パートナーをもつ議員が結婚式の問題で落ち込んでいたとき、周囲の議員にはその落ち込みに気が付くことが求められる。そのためには、例えばいつも発言がはきはきとしている人が控えめなトーンであうというような細やかな気遣いが必要になる。しかし、このようなことは友人関係の間ではしばしば実践されており、多かれ少なかれ可能である。そうした落ち込みに気が付くことで、いまだ正当化されていないようなマイノリティの問題もまた議題に挙げることができる。こうしたことを正当化することを目標に議論を重ねれば、二つの意味で解釈資源が増える可能性がある。第一の意味は、まさにフリッカーが提起するところの解釈資源である。すなわち、後の時代に現実に構築されてきたような、婚姻の自由に訴えたり、法の下の平等に訴えたりするような、法的回路がより早い段階で見つかったかもしれない。第二の意味は、本稿が第2章で訴えたような、マイノリティが自らのイシューの重要性を社会全体に納得させるための資源である。この第二の意味での解釈資源を増やすためには、従来理由に基づく言説によって普遍化されてきたマジョリティのイシューを、マイノリティのイシューと同様に経験に基づく回路で捉え直す必要がある。例えば、経済政策が社会全体にもつ価値を理由に基づき説得するのではなく、経済政策に力を入れる議員が、どのような契機でそれに関心を抱いているのか共有することがこれにあたる。もしかすると、その議員には会社経営者の親類がいて、幼少期からその親類がこぼす経営の厳しさについての愚痴がその議員の経済観を形成しているかもしれない。このような経験と経験の対話を経れば、異なる議員の異なる問題意識が共に個人的に切実な契機に端を発することが理解できるようになる。このようにして、同性パートナーをもつ人のイシューもまた、周縁化を受けることなく、経営者の親類をもつ人と同様に重要なものとして解釈されるようになるだろう。

本節の最後に、存在の政治というタームを用いて本節の議論を振り返ることで、内容を整理しつつ、親密圏的コミュニケーションと存在の政治の関係を明らかなものとしよう。存在の政治は、議員の個人的経験に基づく自律性がアカウンタビリティと競合し得る価値であることを明らかにした。存在の政治は、議員を単に国民のアイデアを機械的に法律に変換する装置とは見做していない。それどころか、何らかの社会的経験を議会に運び込むための装置でもない。個人として選出された議員同士は、当然互いを、異なる国民のアイデアを変換する装置ではなく、個人として見るべきである。存在の政治がアイデアの政治と異なる独自の価値を発揮できる場面というのは、議会における議員と議員のコミュニケーションは、個人的な性質を帯び、人びとの現われを公的なものへの手段ではなく公的なものとして解釈すべき目標であると捉える親密圏的空間となるときなのである。このように、存在の政治がアイデアの政治によっては為し得ない価値を実現するとき、その空間は親密圏的空間となる。そしてそこでは、公共圏的空間が抑制してしまっていたようなマイノリティの現われが起こりやすくなることで、集団的な解釈資源の構築をよりよく行うことができる。

3.2 親密圏の価値その2:現われの機会の均衡化

前節では、親密圏的空間においてマイノリティの現われが起こりやすくなるのは、各人の現われが目的化されており、公的なものに向けて自らの主張を競い合うというそれ自体解釈資源が必要な行いが要求されないからだと述べた。本節では、親密圏的空間が優位となり得る第二の理由として、マジョリティとマイノリティのストーリーテリングの機会をめぐる関係に注目し、親密圏的空間においては、マイノリティがストーリーテリングをすることが促進されるだけでなく、それを行う機会が実際により多く提供されることを述べる。

親密圏的空間においてマイノリティに視座の表出のための適切な機会が与えられる理由は、親密圏的空間の最たる例である友人関係についてのアナロジーによって明らかになる。友人関係における意思決定は、理由に基づく決定を排除するものではない。意見が割れたとき、片方が何か理由をつけて相手に譲ったり、あるいは、理由付けと申し訳なさを示す言葉を添えて相手に譲ってもらうことを頼んだりすることはある。それが公共圏と異なるのは、理由が、最適なものを探すための手段ではなく、それぞれの対等さを損なわない形で、誰かひとりの意思に従うことに他の人が納得する手段として機能しているところにある。友人関係においては、理由に基づく推論がいかに正しいように思われても、友人の一人がそれに納得していない様子を示していれば、それは意思決定に失敗していると言われる。また、友人関係における意思決定において、多数決が見られることもしばしばある。しかし、多数決の結果として誰かひとりの意見が退けられることが続けば、配慮が行なわれるであろう。このような譲り合いが行われる理由は、友人関係においては、互いに対する尊重から、対等性が重視されているからである。

親密圏的議会においてもまさに同様である。マイノリティは実際数的にも少数であることも多いが、マイノリティとの平等と包摂を損なう程度にまでマジョリティが多数決プロセスを採用して意思決定の機会を独占することは正当化されない。マジョリティは今まで文化帝国主義により議会において無自覚に議題設定と意思決定の主導権を独占していた。それゆえに、マイノリティの視座をより適切に反映させることはすなわち、こうした主導権を時にはマジョリティがマイノリティに明け渡すことを意味する。議会における親密圏的なコミュニケーションは、そのことについて社会全体が納得するための理由付けのプロセスなのである。ドーヴィ(Dovi 2009: 1180)は、資源の有限性の問題から、マイノリティの声を聞くために、時にはマジョリティの声に耳を傾けないこと、すなわち排除をすることが必要であると述べている。この主張も、親密圏的議会の想定においては極めて自然に受け止めることができるだろう。どんなときマジョリティが自らの声を主張することをやめ、マイノリティの声に耳を傾けるかは、まさに親密圏的なコミュニケーションのプロセスにおいては難しい問題ではない。

前節で用いた同性婚と経済の喩えを再び援用して本稿の議論を例証しよう。同性パートナーをもつ議員の悩みを発見できるような議員間の気遣いは、親密圏における一般的な人間関係の働きによってより容易になる。同性パートナーをもつ議員が、特に同性婚とは関係ない観点から経済の問題について議論に参加することはあり得る。同性パートナーをもつ議員は、同時に、その国の経済活動に参加する国民の一人というアイデンティティを有してもいるからである。しかし、経済の議論が親類に経営者をもつ人の嘆きに端を発して行われている場合、友人関係においては、それは親類に経営者をもつ人の話題として扱われるだろう。議会内における親密圏的コミュニケーションでも同様にそのように扱われることがもとめられる。言い換えれば、同性パートナーをもつ人の発言があったとしても、そのような状況ではそれは同性パートナーをもつ人の話題ではないのである。すると、対等な関係を維持する意識の元では、次に同性パートナーをもつ人の経験に耳を傾けようという考えが働く。すると、その人の経験を聞くための端緒を求めるようになり、その人の挙動により注目するようになる。結果として、その人の悩みに気が付きやすくなるのである。

このように、親密圏的空間においてストーリーテリングによるマイノリティの現われが起こりやすくなる理由は、次の二点に見出すことができる。第一に、親密圏的空間においては、個々人の経験の共有と解釈は、議論の論拠ではなく、議題、すなわち追求すべき目的である。それゆえ、公共圏が自己の経験を表出させる際にそれが公的なものへの主張であることを説得することを要求するのに対し、親密圏にはそのような圧力はなく、むしろそれがどのようなものであれ議論の主題として挙げるよう要請する力が働く。第二に、共振を起こすストーリーテリングの機会の平等性は、対等であることが個々人を尊重し、関係を維持するためには不可欠であるために、保障される。以上のことから、解釈資源の不足から生じるマイノリティ性に、集団的解釈資源を構築することで対処するためには、親密圏的コミュニケーションこそが優れている。

第4章 現実の議会における親密圏的空間とその問題点

本章では、親密圏的コミュニケーションや譲り合いといった概念への反応として起こり得る反論を想定し、それへの応答を試みることで、本稿の議論をより明確なものとする。齋藤(2008: 203)が主張するように、親密圏における現われは、自らの意見や経験が否定されないという安全性の感覚を要求しており、それは特に非公開の空間において可能である。実のところ、こうした非公開で親密圏的な空間は現実にも存在するようである。政党間の折衝や派閥間の利害調整など、現実の議会における意思決定の重要な部分は非公開の折衝において行われているところも大きい。これらの現実の状況を念頭に置くと、一見すると親密圏的な議会があまりよいものにも思われる。すなわち、親密圏的な議会においては、議員は一度当選してしまえば、非公開の環境の中で私欲に走り専横に走ることが懸念されるようでもある。このことからわかるように、たしかにあらゆる非公開で親密圏的な議会が理想的なわけではない。そこで、現実の議会活動における親密圏的空間の問題はどのようなところにあるか検討し、どのような親密圏的空間を目指すべきであるのか明確にする必要がある。

現在行われている非公開の折衝の多くは、結局のところ、議員の経験を集団的に解釈するという本稿が提唱する親密圏的議会の目的を果たしていない。アイデアの政治の概念が広く浸透しているために、議員は支持者の意見や利益を実現することを目的に活動しており、その結果、議員同士の主張はしばしば対立的なものとなっている。もちろん、公共圏におけるアイデアの政治において、こうした対立は理にかなった推論によって解決を見るべきとされていることは、時には人々を納得させるよい結果をもたらすこともあるだろう。しかし、現実の議会において、理にかなった推論に失敗し、議員同士が共約不可能性に陥ったとき、議員たちはしばしば非公開の空間により権威的な解決を図っている。これによりアカウンタビリティが失われ、意思決定が少数の者に独占されているとの感覚が生ずる。

本稿が主張する通り、議会の親密圏的性質がよい効果をもたらすのは、あくまでそれが議員の現われを促す限りにおいてであり、存在の政治はその前提である。そのためには、現在行われている非公開の折衝とは全く反対に、親密圏的空間から権威を除去するよう努める必要がある。従来のデモクラシーが代表の選出において秘密投票を採用してきたことは、権威の排除を行う目的に照らして理がある。このことから明らかになる通り、親密圏には親子関係のように権威を伴うものもあるが、議会に相応しい親密圏は、上下関係のない、成員の相互性が保障された空間である。

また、そのためには、親密圏的コミュニケーションは最終的な意思決定を行うことまでをも目指すべきではない。親密圏的コミュニケーションの目的は、解釈資源の集団的構築にあるのであって、意思決定にあるわけではないからである。意思決定にかんして言えば、譲り合いを含む親密圏的コミュニケーションでは権威的な決定が行われる危険があり、必ずしも理想的とはいえない。この点で公共圏的コミュニケーションには依然として理があるようである。親密圏的コミュニケーションと公共圏的コミュニケーションは、必ずしも二者択一的なものではない。ある場面においては親密圏的であり、ある場面においては公共圏的であるという人間関係は、例えば学校におけるグループワークと休み時間、職場における会議と宴会のように、無数にある。意思決定をする際には、公共圏的コミュニケーションのモードが適切である場面は多いだろう。

ただし、親密圏的議会は、全く意思決定に関知しないものではない。何らかのコミュニケーションを行ったにも拘らず、それが意思決定に対して一切の影響をもたないということはあり得ないし、目指すべきでもない。友人同士においてもあらゆる瞬間にあらゆる点において関係が非権威的で均衡であるとは限らず、その意味では危険もあるということは考慮しなくてはならない。例えば、ある分野において友人の一人が博識であるとき、その分野についての決定をその人に任せる契機となってしまうこともあるだろう。しかし、公共圏のアゴーンにおいても、より多くの解釈資源を有する人の議論が結論に反映されやすくなることはあり得る。その場合と比べて、解釈資源が不足している人に対して相互性の確保のための譲歩が保障されている親密圏的議会における権威の危険は、必ずしもより大きなものであるとはいえない。本稿がいままで主張してきた解釈資源の構築という目的の価値は、こうした危険にも十分に耐えうるものである。解釈資源の集団的構築に適切に参加していれば、マジョリティは意思決定においてマイノリティの視座を十分に反映することができるはずである。そのため、親密圏的なコミュニケーションが十分に行われた後に意思決定が行われることは、現実の議会において行われている共約不可能性の権威的解決としての非公開の意思決定と比較しても、また解釈資源の多寡をそのまま反映してしまう理由にもとづく熟議で行う場合と比べても、より望ましい結果を導くものではありつづける。

結論

本稿は、マイノリティのイシューに向き合い、平等を促進する動きのボトルネックの一つとして、議会におけるマイノリティの包摂の不足があることを指摘し、マイノリティの包摂のために議会をどのような場とすべきであるか検討してきた。マイノリティのイシューをめぐる解釈資源の不足の中には、競合する多くの権利の主張の一つとしての地位を獲得してはいるものの、その重要性を訴え出る次元において不足が見られるものも数多く、こうした次元に訴え出るためには、社会全体を代表する議会で議論を行わなければならない。議会が理由に基づく推論やそれを戦わせるアゴーンの場である限り、こうした解釈資源の集団的構築を行うことは難しいであろう。公共圏では、個人の主張は公共的なものという目的のための手段として扱われてしまうため、生の個別性とその至高性への配慮という解釈資源構築の前提にアプローチすることは難しい。解釈資源構築の起点となるストーリーテリングのようなコミュニケーションのモードは、親密圏的な空間においてこそ可能となるのである。また、親密圏的な場では、対等性という価値の維持のために、解釈資源が不足している状況下においてもストーリーテリングの機会がより平等にまわってくる蓋然性が高まる。一方で、意思決定そのものが親密圏的環境において行われることは避けるべきである。それは、親密圏が要請する非公開性が、しばしば議員の現われを抑制するような権威的な意思決定を行うことにつながるからである。こうした意思決定はアイデアの政治に基づくものであり、存在の政治には却って反する。親密圏的議会が有効なのは、あくまで解釈資源の構築の場に限られることに注意が必要である。

理由に基づく推論は、長く支持されてきたし、私たちの日常的なコミュニケーションにおいても、重要な手段の一つである。公共圏的な政治や、そのもとに積み上げられてきたデモクラシーをめぐる議論の価値は依然として非常に大きなものがある。実際のところ、選挙を除くあらゆる過程の政治を親密圏的に行ってしまえば、それはおそらく、もはやモクラシーの一形態であるとは見做されないだろうし、デモクラシーの重要な価値を毀損するものともなり得る。本稿の役割は、そうした極端な主張を実現することにあるのではない。平等の達成はそれ自体価値をもっているし、マイノリティの包摂は議会の正統性を向上することに寄与するものでもある。そうした価値の一つを実現する手段として、フィリップスの存在の政治の役割は大きく、それを突き詰めて考えることによって、従来無批判に退けられてきたものを正しく批判し、再検討することが、本稿が果たし得る貢献である。

参考文献

書籍・論文

その他

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